KORANIKATARU

子らに語る時々日記

交流がかえって仇になる

玉造駅周辺で酒屋を探すが見当たらない。

駅周辺をぐるりと歩いて、かつて阪神受験研究会があった地を懐かしんで振り出し地点に戻った。

 

電車に乗って実家に向かう。

そのあたりで買えばいい。

 

が、結局まともな一升瓶の酒を売る店を見つけることができなかった。

 

この夜は法事。

法事の際は一升瓶を持参、と決めていたが、買えなかったのも何かの思し召し。

仏さんが飲むのでないし、父も今はさほど飲める訳でもない。

どうせ飲むのは親戚のおじさんだけ。

呪縛が解けて、わたしはコンビニで手頃で小ぶりなボトルを二本だけ選んだ。

 

祖父が亡くなってこの日でちょうど30年目。

毎年命日に親戚が集まり法事をするが、お酒を飲んでガヤガヤするだけのこと。

 

故人を偲ぶといった厳粛からおよそかけ離れていて、つまりただの飲み会30周年とも言えた。

 

非力なちびっ子時代であれば、親戚のおじさんも大きく見えた。

が、いまでは同じ大人としての観点が入り込むので、少しばかりは視線も冷める。

 

そんな宴会の場が楽しめる訳がなく皆がわいわい騒ぐ中、わたしの眼はますます冷たいものになっていき、それはわたしの弟や妹を含めた家族にとっても同様だった。

 

だから、いつしかわたしの弟や妹の家族は姿を見せることがなくなって、この場にわたしの女房がいるはずもなく息子も当然現れない。

 

合わない場に無理に付き合うことはない。

わたしがそう助言し、皆の足は遠のいて、結局わたし一人が参加する形に収まっていった。

 

しかし若気の頃、わたしは異なる考えを持っていた。

年に1度や2度の大事な慣習、たまに顔を合わすだけの人らが集まるのであるから、内心とは別、機嫌よく過ごす「べき」ではないか。

 

とはいえ、そう思うわたし自体が根っからこの法事を毛嫌いしていた。

嫌と思うものに付き合わされることほど辛いものはない。

わたしがそう肌身にしみる原点が法事にあったと言ってもいいだろう。

 

眼前にする土着的な世界が嫌だったからこそ、一念発起し阪神受験の門を叩いたようなもの、という説も当たらずとも遠からずと言えるのではないだろうか。

小6の子どもにとって、別の世界に行くことイコール中学受験であっても何らおかしくない。

 

月日が過ぎ多少は形を変えつつも法事は続き、ようやくここに来てその終わりが見えつつあるが、わたしは以後も気が進まないながらも参加しようと思っている。

 

父の気持ちを考えるとそれがわたしの責任であると思うし、母のことを思うととても知らぬ顔はできない。

 

法事はもう不要とわたしは父に言うが、父は皆に寂しい思いはさせられないと頑なさを強め、母にとっては父が絶対であるから、収束しつつあるとは言えまだ当分法事が引き続くことになる。

 

その場に母の血縁はわたし以外に誰もなく、子も孫も顔を出さないのだから実はかなり寂しい場であるはずで、わたしはそこに最大の矛盾を覚えるが、母は愚痴ひとつこぼさず給仕する。

 

自分一人が辛抱すれば折り合いがつくのだからたやすいこと。

負担は相当なものだが、母はそう思って耐えているのかもしれない。

だからわたしも自らにそう言い聞かせ、無表情にて酒で口を潤すことになる。

 

父に情があって母に愛があったからこそ、うちの家では核家族化が世間同様には進まなかった。

いわば焦点が二つ生じて、しかし楕円のようには丸く収まらず、二つの円がいびつにねじれて離反している状態、それがいまの現状と言えるだろう。

 

適正な距離が失われると調和が崩れる。

嫌いでもないのに嫌いになったり恨まずともいいのに恨んだりといった風に、交流がかえって仇になる。

 

適当にばらけていれば、いとこ同士の交流もほどよく良好に続いたかもしれない。

が、互い法事を通じもうたくさんという心境になってしまっているのではないだろうか。

法事の度によそよそしさが増していく。

 

だからもう一方の側に顔を出すのは、わたしだけで十分。

そう思う。

次の正月もそうなるだろう。

 

いつの日か、正月元旦。

父母を上座に、わたしたち兄弟姉妹、そしてわたしたちの子どもたち、つまり父母にとっては孫たちが集まって家族水入らず、和やか過ごせる日が訪れることだろう。

 

法事の耳やかましい残響を振り払いつつそんな日について考え、ほとんど何も食べて飲んでないので帰途、ちょいと一杯ひっかけた。

 

家族にもいろいろあって、それぞれ考えていることもてんでばらばら。

わたしたちが合わないと思う場がある一方で、別の局面では、わたしたちのことを合わないと思う人たちもいる。

 

無理に合わせることはない。

 

思えば、うちの子らは子どもだった頃、猿同然だった。

そのエネルギー過剰がたたって、本当に冷たくあしらわれ、身内であるはずなのに眉をひそめられ、うとまれることも多々あった。

そんな場合は距離を置き、上機嫌で生きられるよう互い接しないという結論もアリだろう。

 

親父は実際のところどう思っていたのだろう。

そんな疑問を息子が持つ日もあるだろうと思い、法事について日記に書いた。

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2019年11月20日 息子の弁当

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2019年11月20日昼 芦屋川むら玄

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昔の11月20日 2011年 神戸ユニバ記念競技場

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昔の11月20日 2011年 朝のウォーミングアップ
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2019年11月20日夜 野田阪神 日本盛