一気に気温が上昇し、暑いとも感じられた土曜の朝、Tシャツと短パンで武庫川に繰り出した。
空も川も土も緑も、視界のすべてに光があふれていた。
それら光を全身に浴びて走って、カラダは歓喜するかのように発汗した。
家内は朝から料理に掛かりっきりで、わたしが武庫川を走る間も含め、昼に差し掛かっても手を休めなかった。
スープを煮込み、煮物類を作り終え、これから肉を焼くというからわたしが買いに出た。
ひさびさミート甲子園に向かった。
優しい女将さんの姿は見えなかった。
前回訪れたのはかなり前のこと。
病を得ているとの話をそのとき耳にし、もしかしてとは思っていたから事情は汲めるが、大将には何も聞かず、肉の話だけしてすき焼き用の肉とカルビとカイノミをそれぞれ500グラムずつ買い求めた。
家に戻って肉を家内に託し、わたしは掃除にかかった。
一階玄関に水を撒き、二階から三階まで一段一段階段を拭き、三階全部屋にルンバを走らせかつハンディ掃除機を使って隅々までキレイにし、その間、洗濯し終えた寝具をベランダに干した。
各自用事を終えて午後4時、料理をクルマに積んで家を出た。
この日は祖父の命日だった。
昨年は父とわたしと母の三人で過ごした。
今年は父とわたしと家内の三人で集まって夕飯をともにすることになっていた。
実家に到着し、持ち込んだ料理でまず先にお供えをしてから三人で食卓を囲んだ。
父と家内がビール、わたしはノンアルコールを飲んだ。
父と数値談義になって、テスト結果を競う同級生のように各自の血液検査の数値について較べ合った。
父の数値はすべて正常値中の正常値だった。
まだまだ父には敵わない。
そう思った。
上手投げで息子を負かして、してやったり。
ご満悦な父が家内の料理を絶賛した。
すべてプロ級、そりゃ孫二人がしっかり育つ。
それにすべてに一生懸命で前向き。
そんな姿勢も孫らに受け継がれたからありがたい。
父は思うところを述べて、家内のこれまでをねぎらった。
父の飲み物がビールから日本酒に代わるころ、母についての話になった。
連れ添って53年、「いる」のが当たり前のことだった。
だからどれだけ考えても、「いない」ということが理解できない。
こんな訳の分からない、筋の通らない話はない。
これが人生だとしたら、やはりまったく意味が分からない。
夜8時を過ぎ、後片付けを済ませ実家を後にした。
高津から阪神高速に乗ったが西行きの道が通行止めになっていた。
環状線に入れず意に反し堺方面へと下る他なく、住之江でいったん高速を降り湾岸線を伝うルートで神戸方面へと向かった。
湾岸線は大阪の西端を海伝いに北西へと伸びる。
市街から外れた場所にあるから、夜の闇は濃い。
工場地帯から発せられる夥しい光も、真っ暗な空と海に呑み込まれて、闇の深さはびくともしない。
そんな闇の中に置かれたからこそ、真実の一側面が明瞭に照らされた。
運転席と助手席に並んで座るわたしたちは、二人で一個とも言える存在なのだった。
二人で力を合わせ、なだらかであるよりはたいていは険しい道行きを渡り歩いてきた。
ナビによって淀川を手前に湾岸線からいつもの帰り途である神戸線へと導かれた。
大きく迂回しての到達であったからだろう。
見慣れた景色が見慣れたものになるまで結構な時間がかかった。