得意技は中華とイタリアン。
小技も多岐にわたり韓国料理もそのひとつに数えられる。
二日連続で韓国映画を観たせいか、韓国料理が食べたくなった。
そうわたしが言ったから、火曜午後、家内は鶴橋界隈まで食材の買い出しに出かけ早速その夜、食卓にわたしが所望したK-FOODが並んだ。
切り餅のスープにチャプチェとチヂミは手作りで、美味しい店の蒸し豚とキムチ、更にはキンパを前にし、わたしは大いに喜んだ。
おそらく二男も喜び、それで家内も喜ぶことになる。
かつて坪谷という占い師が言ったとおり、うちの家内は「善の人」。
料理だったり、笑いであったり、その他もろもろの献身によって人に良くしてそれが喜びになるタイプと言える。
そして、世の大半は善の人で構成されていてその作用が恩恵となってもたらされるから、だから生きることは素晴らしいということになる。
で、この日の話題は「悪の人」についてとなった。
限定的な状況における現象であるにせよ、いったいなぜ人はそのようになってしまうのだろうか。
人に良くしてそれが喜びとなる人がいる一方、その正反対、悪い作用を及ぼして人を困惑させてエネルギーを得るタイプの人が世に実在する。
誰かをあてこすったり、茶化したり、煽ったり、焚き付けたり、袖にしたり、騙したり、バカにしたり、蚊帳の外にしたり、見下したり、蔑んだり、つまり、誰かの心を汚して悦に入る。
子どもで言えば、「意地悪」といった軽めの言葉で片付けられるが、大人になるとグローブをはめずに打つパンチみたいになって衝撃は倍増しになるから、とても笑って済ませられない。
それに、「悪の人」常習者に至っては行動様式が無意識化しているから、悪気なく誰かを殴るということになり、なおさら始末が悪い。
殴られると痛く、後々まで不快と動揺が尾を引いて、水に流すことは容易ではない。
立ち直るには弾みをつけるように反作用として相手を懲らしめようと恨むことが必要になるから、まさに相手の思う壺、こちらの心はすっかり汚れ切ってしまうことになる。
そうなると文字通りの泥仕合。
元を辿れば、「悪の人」も誰かに粗末に扱われ邪険にされ傷つき、それで復讐したことがきっかけで、淫靡な快に目覚めてしまったのかもしれない。
だからといって、こちらまで汚濁を連鎖拡大させていく多重事故の当事者となってはならないだろう。
いったい、自分が何に大喜びしているのか。
そのとき心は汚れていないか、そんな点検が折々、必要だろう。
汚れに喜悦し放置すれば、ますます汚れる。
心のクリーン作戦が欠かせない。