何かを失う訳ではない。
たかだ受験。
子が元気ならそれで十分。
日々の幸福を享受できる。
その価値の巨大を思えば、どっちが上でどっちが下といった世間で取り沙汰される不等号の向きなど些細に過ぎて、視力検査のCの字のごとく、どうであろうがそれで困りはしない。
しかし、こんな話は当事者の気持ちを逆撫でするような詭弁に過ぎないだろう。
わたし自身、息子たちが曲がりなりにも中学や大学に合格したとき、とろけるような喜びにプルル打ち震えた。
裏返せば、不等号へのこだわりが多少なりともあった訳であり、つまり前記した話は欺瞞であると白状せねばならないということになる。
受験がメンタルに及ぼす影響は計り知れない。
小学生の頃から塾に通い、中学に合格して家族で喜び、この学校がいちばんいいと晴れがましく過ごして大学への期待値は高まって、だからもしそこに落差が生じれば、本来は悲嘆すべきことでもなんでもないことに酷く悲嘆するということが起こり得る。
あるお母さんが荒れ狂って、喚き散らし手がつけられない状態になっている。
そんな話を伝え聞く。
子と二人三脚でここまで頑張ってきた。
しかし突きつけられた結果は到底受け入れ難いものであった。
この不本意感をどこにぶつければいいのだ。
行き場を失った感情が、一気に子に押し寄せる、といったこともやむを得ないのだろう。
序列など仮構である。
しかも大した威力のない仮構であって、閉鎖的な村社会の土着信仰に近く、その陥穽は一過性の錯覚のようなものに過ぎない。
だからまもなく気づくことになる。
切り刻まれたと思った心身は元のままでありむしろ頑健となっている。
あれはなんだったのだろう、痛くも痒くもない。
前を向き元気に進み出すことができ、それが何よりありがたく思える。
この日常は以前のまま無傷で平穏無事な姿形をしている。
あれはなんでもなかったことなのだ。
そうなるだろうが、それでもやはり思う。
受験は自己責任とは言え学校が負う役割は小さくない。
進学実績にこだわらない。
そう笑って言える家庭は多くない。