子育てに伴う出費は小さなものではなかった。
特に学費は集計すればかなりの額にのぼるだろう。
しかしどの時点においてもそれを惜しいと感じることは一切なかった。
それどころか喜びであったとさえ言えるかもしれない。
だからそんな支出についていちいち細かいことを考えることはなく、ということはつまり、わたしにとってそれは「生きたお金」だったということになる。
であるからなおさら、「お金をかけた割に、その程度か」とでも万一言われようものなら、とても嫌な気持ちになることだろう。
もちろん、表立ってそんな失礼なことを言ってくる人はいない。
しかし、そう思って陰で冷笑する人はいるだろう、と想像くらいはつく。
たとえば誰かと誰かを較べてのご近所談義などどうであろう。
一方はお金をかけ、他方はお金をかけていない。
ところが、そんな誰かと誰かに差がないのだとしたら、あら不思議。
ご近所さんの暇つぶしの種くらいにはなるだろう。
たとえば子どもはみな同志社だと端からその一択で中学受験に臨んだ家があった。
いまや同志社は関西地域の私学の中では抜きん出て、かつて存在した関関同立といった言葉はいまや関関近立に置き換わったとさえ聞く。
しかし中学から入る場合、思いのほか難しくない。
本気も本気の受験塾に通わずとも、家の一角が教室といった牧歌的な学習塾に週3回通う程度で合格できて、しかも月謝が受験塾に比べて破格に安い。
それでそのまま同志社大学に入学でき、名の通ったところに就職ができ、よい縁談にも恵まれるのだとしたら、本気も本気の受験塾に通ってそこに届かず他の結果も芳しくないといった人がいた場合、「あら不思議」との言葉がどこかから向けられても不思議はない。
うちの場合は本気も本気の受験塾に通ったが、「その程度か」を経て「その程度か」に至り、結果、息子たちを東京にやることになった。
それで親子の交流がむしろ増し、息子たちは関西にいたのでは得られなかったであろう経験を積み、関西にいたのでは彼らの前に拓けなかったかもしれない世界へと招き入れられることになった。
だから、そんな内実を思えば、比較されるような取っ手自体がどこにもないのは明らかなのだが、もし仮に就職先などがぱっとしなければその表面を掴まえて「あら不思議」の俎上に載せられることもあるだろう。
そんな話を家内と交わし、「あら不思議」と嬉々として口にするだろう人物の顔が思い浮かんで、夫婦でその人物の顔と名前が一致した。
軽率と無礼は水魚の交わり。
そんな軽はずみな言葉を口にしそうな人とは距離をとる。
それが適切な処世だと子育てを通じわたしたちは学んだ。