結婚式のスピーチで、「何が大事といって人間関係が全てやで」といった内容の話をしたことがある。
結婚して子を持つようになり、私自身が最も身に沁みていた実感を述べたのであった。
今もその思いはますます強くなるばかりである。
人の縁の一端に身を置かせもらい、その脈の中で支えられ、それで初めて、ささやか禄を食むことができている。
張り巡らされた「縁の糸」の中、他者の力で生かされていることを心底実感し、感謝の念が沸々込み上ってくる。
この不思議なからくりに、畏怖すら覚えるほどだ。
「縁の糸」は、どう考えても昨日今日で編み上るようなものではない。
私一個の思惟を遥かに超え、少なくとも両親、祖父母、もしくはもっと昔日の因果が作用しているに違いない。
気脈通じた人間関係が代々受け継がれ、一個人の遠景を彩る壮大な「縁の糸」となっていく。
縁の糸は、往時より紡ぎ続けられてきた無形の財産として、未来に向って受け継がれていくものとなる。
そして、それは現在進行形で変容し続け、糸の織り成す紋様がこの人生を、そして次の人生を醸成していく。
縁の糸は、信義、礼節、温和勤勉を原料とし、度胸愛嬌を隠し味にして生成される。
糸の結節点はゆるぎなく、敬意をもって輪を広げ、時にはピンと張り、時にはたわむ。
この力動が、自己がのっかる編目を更に肥沃豊饒なものへと育んでいく。
この人間観に思い至れば、身を律し、責任を全うし、他者を気遣い、感謝の念をもって日々過ごすことの大切さが自然と腹に落ちる。
おかげさま、という言葉の深遠な意味合いをしみじみ味わうことができる。
もし、そうでなければ、他人は、糸の切れた凧、軽く薄っぺらな顔のない影絵も同然。
他人を平気で小馬鹿し、他人の不幸を、指差しせせら笑う人種が発生することになる。
さらに、自身が編目の恩恵に浴するヒモ付きであった場合、生まれたときから人を見下し、長じても他者を睥睨したまま、惰眠むさぼる我が身を恥じ入りもせず、小ウソと虚飾で我が身を装い、常に勝者であると錯覚したまま、いずれ本人が本当の意味で、その糸の切れた凧、軽く薄っぺらな顔のない影絵に堕していく。末代までたたる縁の糸の大損壊だ。
次に誰かの結婚式でスピーチする機会があったとしても、子らに聞こえるくらい声高に「人間関係が全てやで」と語るつもりだ。