その昔、顧問先のご婦人に相談を受けた。
娘さんが三十路過ぎたのに、結婚に踏み切る素振りがない。
結婚願望はある、だからお見合いはする、見合いだから相手の素性も経済的な土台もしっかりしているが、デブは嫌、ハゲは嫌、あれも嫌、これも嫌だと、らちが開かない。
どうにか、結婚する方向に背中押すような話をしてくれないか、と頼まれた。
世の中にはできることとできないことがある。できないことは引き受けてはならない。
しかし、当時の私は、安請け合いしてしまった。
結婚を単に一つのアクティビティ程度に考え、気軽に説得しうるものだと思っていたのだ。
もちろん、今では結婚について、生死と同じカテゴリーに属するほど奥深いものであるとチラとは感知しつつある。
さて、説得の話である。
どのように話を組み立てるか、若かりし愚かな私は焦点を2つに絞った。
障壁となる男性の見かけについてその概念を変化させること、結婚に対しいよいよ前向きとなるよう焦らせること。
経済力がある人が前提なので、貧しくても相手がないよりはマシといった話や、今は貧しくてもいつか大化けし打出の小槌に変わるかも、という話は不要であった。
普通の男というのは、実はハゲでデブなのだということを証すため家族で夙川公園に花見に出かけた。
花見がてら、美しい女性伴うナイスなカップルの写真を満開の桜をバックにそれとなく撮影していった。
これは、と思った素材については尾行までして、標本を収集した。
夙川公園で満開の桜をバックに美しい女性伴う幸福な男性達は、皆が皆、ハゲでデブということではなかったが、まあ大半がそんなようなものだった。
夙川であってさえ、桜が満開の最上の季節であってさえ、美しい女性を伴っていてさえ、普通の男というのは、「もっさい」ものなのだ。
長身痩躯で美形の顔立ちの男性など異常な存在であり、普通には見かけないものなのである。
男と言えば、「もっさい」もの、それが男の属性とさえ言えるのだ。
そして、説得にあたり、その標本を見せながら、「そんなもんや」で、という話をしたのであった。
「そんなもんや」程度であっても、経済力あれば引く手あまたで、気に入ってくれて結婚しようなぞと言ってくれる「そんなもんや」は、日増し加速度的に減少してゆき、そのうち見向きもしてくれなくなるのだよ。
最後には、「そんなもんや」が酷く進行した「どんなもんや」という位の極め付けしか残っていないが、そのとき、あなたも、「どんなもんやねん」というキワモノになるのだよ。
しかし、完璧に思えた私の説得は、相手のたった一言で、頓挫した。
「うつむいた結婚式はしたくない」
返す言葉はなかった。
そのうちいい相手見つかるさ、とすごすご退散するより他なかった。
封建的な社会でもあるまいし、いくら言葉で説得したところで黒を白に言いくるめることはできない。
あざとくふざけた話し方をすべきではなかった。
結婚について、自分自身が肌身に感じ思うことを話すだけで良かったのだろうと、今は思う。
独身者から見れば、結婚は不可視の世界である。
色んなイメージは持ったとしても、どれもこれも、的外れなものに過ぎないだろう。
結婚すると、伴侶の気運も相俟って人生が全く変わる。
それは「不可視」以外のなにものでもない。
そして、その不可視な結婚が、生涯にまつわる生と死という、更に不可視な両岸をつなぐ営みとなる。
子を生み育て、子の結婚を見守り、やがて看取られ、弔われる。
結婚という営為が起点となって、それが、繰り返されていく。
恋愛に一時的、過渡的な要素が含まれるのに対して、結婚は重苦しいほど永続的だ。
その縁は、あまりにも重々しいもので、そもそも安易に切った張ったなどできないものなのである。
その永続性のつながりの中に伴侶とともに厳かに身を置く、それが結婚の本質と言える。
結婚式では、うつむく位になって当然だろう。
何しろ、生死のユニット結成の儀式なのである。
極まりないほど厳粛なこととしか言えない。
それを知れば、長身痩躯の美男子じゃなきゃダメ、などといったこだわりなど、あまりに本質から遠く、二の次三の次になるのではないだろうか。