KORANIKATARU

子らに語る時々日記

友人の小さな変化

偶々近くを通り掛かる用事があったので、前日に友人に電話した。
昼飯でも一緒に食おうということになった。
社会人になりたての、携帯が全く普及していない当時のことである。
友人は、今は何という名称になったのか、都銀のうち最大の公的資金の注入を受けることとなる銀行に勤めていた。

連れられた先は銀座天龍。
勧められるまま餃子ライスを注文した。
それがあまりにおいしかったからだろう、些細な食事の一場面でしかないのに、鮮明に記憶に残っている。

友人はバッジについて説明を始めた。
どうして外でバッジを裏返しているかというと、銀行員はいつだって狙われるリスクを考えないといけないんだ。
誘拐でもされたら大変だからね。

そこで初めてバッジが裏返しであることに気付いた。

銀行マンであることの社会的地位のようなものがその時の会話を通じ、深く理解できた。
資金の出所は銀行であり、つまりそれは市井の企業の生殺与奪の権を握っているということである。
生かすも殺すも銀行のさじ加減で決まる。

バブルはとっくにはじけ、数多くの中小企業が未曾有の危機に陥っていた。
バブル当時とうってかわり、銀行の貸し渋りやら貸し剥がしやらが世間を賑わしていた。

食事を終え立ち上がると「そっちで払っといてよ」と言われ、一瞬虚を突かれた。
別におごることが嫌だとか、そんなことを思った訳ではない。
一人1000円程度の飯をおごるくらい何でもないことである。
飯はおごってもらって当然という態度、会計の際ちらと威光を小出しにするような雰囲気が、あまりに自然であったので小さく驚いてしまったのだ。

彼が勤務する場の暗黙の論理と、外部に対する心根と振る舞いが透けて見えるようだった。

会社に入るということの侮れない影響力を思い知った。
意識する以上に会社の論理と体質に染まって行くのだ。
若い頃にそんなものに染まるのも善し悪しである。
特に殿様気質は厄介だ。
何ら実利のない反感をかってしまう。
バッジがあるうちはまだしも、なくなれば、裸の王様。

決して1000円おごらされた恨みで皮肉っているわけではない。