事務所に戻るとドアノブに弁当バッグが引っ掛けてある。
誰の仕業か明らかだ。
ちょうど昼ご飯を食べ損ねていた。
有難い。腹ごしらえし、夕刻以降の仕事に備えるとしよう。
昨晩のスープと炊き込みご飯も絶品だった。
今日の弁当については、ほうれん草が余計だったけれど、チャーハンと焼肉にほっぺが落ちたよ。
そこらの弁当と品目数が比べ物にならない。
総菜屋の弁当が漢字の三だとすれば、お家のは驫や鸞。
手間が10倍違う。
Amazonで注文していた宗先生の「現代文の力を底上げする本」(学研)が届く。
早速張り切って読むつもりが、弁当をガツガツ一気に食べるみたいにはいかない。
「読むことは、もっともっと能動的で慎重であるべき知的技術だ」と序に記された宗先生の言葉に身震いのようなものを感じつつ、仕事の波に呑み込まれてゆく。
読書の愉悦にひたる余裕もない仕事生活が何年も何年も何年も続いている。
最も読書できたのは大学生の頃だろう。
今思えば、有り余るほどの時間があった。
余白だらけの毎日だ。
ベッドに横になり本を読む。
眠くなるとそのまま寝入るが、目が覚めても用事がない。
さらに眠って眠って、もはや目が冴え眠れない。
そこでまた本を読む。
最も読書に適した脳波の状態であったに違いない。
体は完全にリラックスしている。
疲れもない。
眠りの淵と地続きでつながるような変性的意識状態に、文字の世界が淀みなく浸潤してくる。
だから、当時読んだ本を懐かしく今読もうとしても、とても頭に入ってこない。
字面を追う時間の余裕がない。
そこに滞空する体力もない。
ぺらぺらめくって読み飛ばし、本腰入れようとしても摘み読み斜め読みが関の山、そのうち棚に積まれて買ったことすら忘れてしまう。
「大事なのは、叡知と箴言に満ちたあらゆる文章を心から楽しむことだ」との宗先生の言葉に初心に還るような気になる。
おお、と身を乗り出し本の言葉に線を入れた若々しい読書体験の記憶がよみがえる。
はじめの4ページほどでつかみはOK、宗先生の本の世界に入ってゆくこととなった。
仕事しつつページをめくり、懐かしみながら宗先生の言葉を味わう。
彼は生まれ持っての語り部、言葉を操る天才だ。
すっくと立って口上始めればどこでだって人が群がる。
彼の言葉で、人は息を呑み、腹を抱えて笑い、赤面し、涙まで流す。
ついには仕事をそっちのけにし、ぐいぐい引き込まれてゆく。
「考える力は、そっくりそのまま言語能力なんだ」。
大人にとっては、思考法の本としての趣きを醸し始める。
局所適応的なマニュアル主義をはるか見下ろす高みから、本質的な議論が展開される。
算数のパズルもいいけれど、現代文の例題に付き合って宗先生の鮮やかな解説を味わうのも一興だ。
勉強にもなる。
いつの日にか宗先生の本を読めると思っていた。
感慨深い。
次は、その傑出した話芸で喝采浴びる姿をテレビで観ることになるのだろう。