KORANIKATARU

子らに語る時々日記

出だしはおバカなくらいがちょうどいい


帰宅し一人自室で映画を見る。
「All or Nothing  」。
イギリス映画だ。

アクションもなければサスペンスもない。
笑う所はないし泣ける場面もない。

労働者階級に属する家族の暮らしがドキュメンタリーのように描かれる。

主人公はタクシードライバー。
風采は冴えない。
お金もない。

妻はスーパーでレジ打ちをしている。
でっぷりと太った息子は仕事探しもせず家でテレビばかりみて母親に悪態をつく。
同じくでっぷりと太った娘は介護の仕事に従事し、老いて傾いだ者らに囲まれている。

家計は厳しく人間関係も貧しい。

息子に友人はない。
年下の少年らにもコケにされるような存在だ。

そして娘にもボーイフレンドはない。
言い寄ってくるのは妻に逃げられたような老人だけである。
娘は寂しい。

家族同士の心も通っていないように見える。
愛は死んだと主人公の気は塞ぎ、そしてお金がない。

重苦しく息苦しい。
特に家計の逼迫の度合いが差し迫っていて身につまされる。

あるとき、息子が心筋梗塞で倒れる。
家族が病院に集まって息子のベッドを囲む。

息子は病気と一生付き合っていかねばならず、娘に誰かいい人が現れることもない。
いつか家族でディズニーランドに行こうと、主人公は持ちかけるが家族の反応は鈍い。

この家族にはお金もなく希望もない。
彼らにあるのは、ただただ家族だけ。

家族についてテレビコマーシャルのような絵空事が描かれるのではなく重い現実だけが描かれる。
しかし、だからこそというべきなのだろう家族の実在感とそのかけがえのなさのようなものがじわじと心に沁みてくる。

これといった見せ場もなく印象深い言い回しもない。
しかし、なぜかまといついて離れない。
一度観れば心のなかずっと留まり続ける映画であることは間違いないように思う。
名作と言うしかない。


仕事の帰りに事務所近くの商店街に寄った。

川繁でうなぎを一尾買う。
これを明日の昼食に。

金毘羅でうどんを買う。
これを明日の朝食に。

たこやで刺し身を買い北京飯店で餃子を買う。
これは今夜の夕飯に。

そう思って買い物をした。
これらを食べて長男は土曜の午後に日本を発つ。


夕飯の支度が整い家族で食卓を囲む。

最初は戸惑う場面が多々あることだろう。
全員がいい人ばかりではなく意地悪な人もあるかもしれない。
しかし間違いなく親切な人がいるはずだから少し嫌なことがあったくらいでめげてはいけない。

そのように長男に話す。

そう簡単に言葉は通じないだろう。
それでも気にすることはない。

積極的に英語で話して、その一方で言葉だけで人はコミュニケーションするのではないと心得ておくことである。

心理学にストロークという語がある。

目は口ほどに物を言い、仕草や態度は言葉より雄弁だ。
相手を尊重したり大切に思う気持ちは、言葉ではなくもっぱら言外の何かを媒体とする。

ちょっとした気働きで、言葉の不出来は補うことができるのだ。

言葉交わさずとも互い良好に関わり合えるような人間関係が成り立ち得ると知ることになるだろう。
そのような人間関係を幾つも築いてはじめて今回の主目的である英語磨きに専念することができる。


一年前と三年前の今日はちょうど前受け受験の日だった。
朝6時に子を起こしウォーミングアップとして計算問題10問に取り組ませたことが懐かしい。
血は争えず長男も二男も一問ミスして、親は肝を冷やした。

冬の夜明けの時間帯、家全体が緊張感に覆われていた。
家族で身を寄せ過ごしたその引き締まったような時間については生涯忘れることはないだろう。

そして全ては過去となる。
あのピリピリとした一日は遠い思い出となって、家族を取り巻く状況は変化を遂げていく。

今日この日、二男は学校の実力テストに挑み、そして長男は極寒異国の街へと向かう。
手を変え品を変え、子らは成長を促される。
いつだって課題は満載だ。


子が力を備え父である私を軽くあっさり追い越していってくれることほど心頼もしく嬉しいことはない。
すべてにおいて子らが私を上回っていく。

私に一日の長があるのはせいぜい読書量などの年季物くらいだけ。
それについても読むべき本はすべて子に残していくし見るべき映画についてはこの日記に詳しい。

現状、子らの育ちはまま良好。
頭でっかちを忌み嫌った子育てに良き点があったのかもしれない。
結果的にではあれ、育つ過程の時期時期に時宜を外さず適切なアクティビティに子らは取り組むことができた。

ハイハイをするときには徹底的にハイハイをするのが体幹の発育にとってプラスであるように、時期にマッチしたベストな活動というものがあるのだろう。

聞くところによれば、大脳皮質の厚み形成においては出遅れるくらいの子の方がより好ましい脳の成長過程を辿るという研究結果があるそうだ。
大脳皮質の厚さが知能と関係し、その厚さがMAXとなる時期が更に強く知能に関係するのだという。

大器は晩成。
六歳や九歳で厚みのピークを迎えるより十一歳でといったゆっくり目の発達がいいということなので、出だしはおバカなくらいでも心配いらないということになりそうだ。

つまりは、脳の複雑な回路が十全に発達するには多様な経験や活動が不可欠であり時間がかかる。
さっさと急ごしらえでき上がるようなものではなく、親に必要なのはそのプロセスを気長のんびり楽しむような心の余裕なのであろう。

そして、一度脳の回路が確固と形成されれば、その後生涯に渡って、各種活動に応じて脳は迅速かつ効率的に布陣を整え最適化を果たし続けるのだという。
そうなれば何と頼もしいことであろう。

子育ての過程において何に取り組ませるかが、直接的に子の脳の形成に影響する。
長期的に見れば単に勉強させれば事が済むといった単純な話ではないようだ。
勉強ができるようにと早くから勉強に専心させて子の人的発育をミニサイズに留めてしまうのであれば、本末転倒も甚だしいということになる。

近視眼的な受験親となって子を机に座らせるより先に、子供が子供らしくある唯一無二の時期、そのときにしかできない経験を最優先し存分にさせてあげるのが親の責務と言えるのだろう。
だからといって、寝転がってゲームなどさせている場合ではないこともまた確かなことであろう。

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