1
本人不在の卒業式であった。
だから式に出席するつもりもなかった。
式の様子について次々と送られてくる写真についても、さほど興味わかずただぼんやりと眺めるだけであった。
一つの写真に目が留まった。
卒業を記念してのクラスの集合写真である。
晴れ晴れとした皆の笑顔の真ん中を占めるようにして一枚の卒業証書が掲げられている。
顔のなかに混じるその卒業証書に目を凝らす。
息子の名前が記されてあった。
本人はその場にいないが、仲間としてそこにちゃんと加えられているのだった。
そうと分かって胸が熱くなり、息子が無事中学を卒業したのだと実感が湧いた。
みな、なんていい奴らなのだろう。
友達に恵まれる幸福。
その歓びを享受できるところに学校の存在意義がある。
この一枚の写真がそれを明瞭に物語っている。
画像を保存し、長男へとメールで送る。
生涯大事にとっておくべき写真となるだろう。
2
雨との予報であったので走る支度をしてこなかった。
が、一向に降る気配がない。
少しくらいはカラダを動かしたい。
そう思って実家までの一時間半の道のりを歩くことにした。
終業式を終えた二男とともに実家の食卓を囲む。
わたしが中学生であった頃、父と母はいまのわたしと似たような年齢であった。
ついこの間のことのように思える。
いつの間にか、わたしが当時の父母の年齢になり、息子らが中学生そして高校生になっていく。
光陰矢の如し、といった話をわたしがし始めて、父が笑って言った。
そろそろ、ということを漠然と感じ始めている。
その順繰りの摂理を思って一瞬寂しいような空気が流れるが、二男はがつがつと食べ続け、そうだと思い出し、長男のクラスの集合写真を両親に見せた。
何が何だか分からないまま何とかなってきた。
父や母への感謝の念が込み上がる。
つましく懸命に生きた親があればこそ、少なくともここまではよい星の巡りに与れたのに違いない。
そう確信できる。
何でもない実家での食事が、いつまでも胸に刻みつけねばならない貴重な一場面となっていく。
今後ますますそうなっていく。
時間というものが有する、畏れ多いようなかけがえのなさが身に沁みた。