夕刻、商店街に寄り、川繁でうなぎ、たこやで中トロ、アジ、イカ、カンパチの刺身をそれぞれブロックで買った。
途中、コンビニでビールも調達し、まもなく実家。
月末には顔を出すよう心がけているが、今月は5日遅れでの訪問となってしまった。
家に上がるとすでにテーブルには料理が満載で、父母がわたしの到着を待ち構えていた。
ビールを開け父母のグラスに注いで三人で乾杯。
宴のはじまりは、長男のラグビー動画から。
なんであれ打ち込むことがあるのはいいことだと動画に父は満足気で、母は何度も頷いて目を細めた。
いつもは一杯だけで終わるのに、この夜は母もビールが進んだ。
だからだろう。
三歳の頃、めかし込んで撮った写真があるという話が飛び出した。
はじめて聞いた話であるから写真を見せてもらおうと思うが、いまどこにあるか分からないと母は言った。
探せばあるはずということなので、いつかわたしがその写真を見つけださねばならない。
そして、その写真は息子らにも必ず見せねばならないと思った。
孫に続いては、いつものとおり今は亡き祖父母の話となった。
本好きでどちらかと言えば机上の人であった祖父。
対して、祖母は生活力の塊だった。
戦後の混乱期、まだ幼い父は買い出しに駆り出され、自身の母を手助けした。
魚介なら岬公園、米や野菜は王寺界隈まで出かけねばならなかった。
おそらく当時の父はうちの二男と瓜二つ。
ノスタルジックな色調のなか、母を助ける幼い二男の姿が眼前に浮かんだ。
机上の人であった祖父の事業はうまくいかなかったが、祖母が行商で一家を支え、子どもだったのに父の暮らしは労働と不可分だった。
あれこれあってほんとうにたいへんだった。
でも今となればあれもこれもすべてが済んだこと。
父がする話の随所で空いたグラスにわたしはビールを注いでいった。
いつも以上にビールが進んで、遂には終の棲家の話となった。
施設なんてとんでもない、この家で最期を迎えるのがいちばんいい。
かねしろ院長も来てくれるから何も心配はいらない。
両親は安心したのか、更に酒宴はしみじみと盛り上がった。
もうすぐ祖父の命日。
この家で迎えて、3人で静か食事して過ごそう。
この先も供養はそういった形でいいのではないか。
父がそう言うからそれで話は決まった。
いつか遠い将来、父母を想って盃を酌み交わすわたしと長男と二男の姿が頭に浮かんだ。
実家を後にすると、母から電話がかかってきた。
持たせる料理を一品忘れたといって、駅まで歩いて母が現れた。
駅前ガード下の薄明かりのなか現れた母は小さく見えて、わたしはこの姿を生涯忘れないだろうと思った。
だから、ちょいと一杯。
家の近くの焼鳥屋に寄ってから帰宅した。
母の手料理をどっさり家内に渡し、ひと風呂浴びて寝床に入る。
しかし疲れが居座っていて眠れない。
久々、家内にヘッドマッサを頼むことにした。
ちょっと値の張るアロマ各種を塗布してもらい肩、首、顔、頭とマッサージしてもらい仕上げは耳つぼ。
これが痛くて思わず声も漏れ出るが効果てきめん。
ほどなく安らかな眠りの世界にいざなわれることになった。
いろいろあったがすべては済んだこと。