KORANIKATARU

子らに語る時々日記

平穏が上機嫌を生む

世には思い通りになることとならないことがある。
後者について心得違いするとストレスに見舞われトラブルに巻き込まれる。

長い目でみたとき平穏であることが最良だ。
日常生活が定常状態に保たれ精神的なコンディションが安定している状態。

平穏こそが上機嫌を生む。

自分の時間が自分のピッチで淀みなく流れ続ける。
そうであってこそ、良き仕事ができ生産性を維持できる。

秩序乱れればたちまち流れが滞る。

一皮めくればわたしたちの内面には原始の感情が横たわっている。
負の感情に波風たてば平穏が不穏となって、一歩間違えれば日常が崩れ不測の事態に至ることになる。

だから古くからの人間の叡智。
仕事の現場において感情は抑制されなければならず、特に負の感情は持ち込んではならないものとされる。
もちろん家庭でも同じ。

成長過程のどこかで必ず学ばなければならない暗黙の戒律だ。

嬉しくても微笑に留め、悲しくても持ちこたえ、恥ずかしくてもそんなことは言っておられず、恐怖は押し返し、怒りに身を任せるなどもってのほかということになる。

数ある感情のなか、その取り扱いにおいてもっとも注意を配らねばならないのは、怒りであろう。

怒りは荒れ狂う猛獣のようなものであり、手綱放せば悪念を燃料としてますます猛々しく、ついには自らをも噛み殺しかねない。

日常生活の局面においては爆発力が過剰に過ぎる。
だから滅多なことで他者に向けてはならないものであり、制御できなければ文字通りの自業自得、自身を害することになる。

平和な現代社会である。
怒りの用途はあまりない。
大量に積み上がった課題を一気呵成に片付ける際に役立つ程度と言えるだろう。

しかしそれでも怒りという感情は人にデフォルトで備わっている。
鎮めるには少々の心構えが必要だ。

必要なのは端っからの絶望であり落胆。
つまり、正しく冷静な認知が有効なブレーキとして機能する。

そもそも日常的に怒りがちな人は、概して他者に対し期待し過ぎなのである。
望み過ぎなのであり、思惑があり過ぎるのだ。

こうあるべきだ、こうすべきだろう、こうされたい、このように扱われたい。
そのようなエゴの裏返しとして、怒りが表出することになる。

そこには自前の尺度がある。
その尺度に照らして、足りない、基準を満たさない、となれば怒りに着火する。

職場の部下が相手ならその尺度で10点なら話にならずせめて60点になるよう改善の方策が必要で、部下は部下である限りその尺度に適応せざるを得ないのであるから、不適合を適合に変えるため、コミュニケーションとしての怒りは必要悪と言えるかもしれない。

しかし、世のほとんどすべては部下でもなければ同僚でさえない。
自分勝手な尺度をあてはめること自体、僭越にもほどがあるというものだろう。

そもそも自らこさえた手前勝手な尺度である。
自分自身でさえ、贔屓目に見てせいぜい60点程度であろう。

それで人のことをとやかく言う筋合いはない。

相手が10点であっても10点もあれば十分であって、それを60点にせよという権限は誰も有していない。
かりに50歩譲って相手の立場から見れば、自分が10点で相手が60点ということになる。

つまり互いに突き合わせたとき、客観的に合致適合するような尺度などめったにないということである。

臓器が適合しないなら一大事だが、他者は自分の外部の存在であって、適合しないと騒ぐのは過剰反応と言うべきものだろう。

別に悪い人でないのであれば、なにもつべこべ言うことはなく、それで十分なのではないだろうか。

だから、自分の尺度など引っ込めてうんとハードルを下げて人と接することが最善の心得となる。
肩の力が抜ければ相手のいいところも目に入って学びも多く、かつ、穏やかな日常も保たれていい事ずくめ。

円満は人為のなせる技。
調和こそが素晴らしく、そこを泉に温かな平穏が溢れ出す。

そして忘れてはならないのだが、平穏のなかにあって最も恩恵を受けるのは他ならぬ自分である。
貴重な日常の時間、上機嫌に過ごせるのが一番いい。