誰かが感情をハイジャックされたとき、うっかりすればその状態にこちらも感染し、作用に対し反作用、感情を応酬し合うという原始的にもほどがある泥仕合が勃発しかねない。
そんなとき、距離を置けるのであれば、そっとバッターボックスから離れるみたいに感情激する標的とならぬよう逃げるにしくはないだろう。
しかし、もし席を外せないということであれば、厄介極まりなくこれはもう一筋縄ではいかない。
例えばクルマでの移動中、隣席の者が怒り心頭に発しブラック化した場合など、そこを離れるのは容易でない。
間近で怒りに晒されれば、燻り出されるみたいにしてこちらの感情にも火が着きかねず、こちらの着火を察知すれば相手の炎は更に猛々しく荒れ狂う。
怨嗟が時間を遡り過去総動員となって支離滅裂な罵詈雑言が一斉放射されればクリンチするのが精一杯で、この膠着は辛く悲しく心が荒む。
鋭角的にこちらに突き刺さってくるそれら荒ぶる感情に対しては、だから取り合ってはならず、例えば数字を数えるなどして聞き流せと教えられるが、差し迫った状況で意識の目を一瞬でも離すなど死んだふりをするのに等しく効果のほどは定かではない。
こんなとき、もっとも理性的かつ解決的な対処法は、実況中継ではないだろうか。
状況を直視し言葉に還元していくことで理性を喚起し保持することが可能となる。
もちろん、実況と言っても思ったことを口に出しては火に油を注ぐことになるから、黙して行ってはじめて実用に足る。
相手の感情の動きを黙して実況することで、不思議なことにこちらの感情は平静に保たれる。
生じた余裕を活かして問うべきは、一体何に、なぜ怒っているのか、どうすれば収まるのか、緩和されるのか、であろう。
そもそも激した感情は、原始由来のものであり、ジャングルでサバイバルする際には有益であっても、この近代都市文明の穏やかな微温のなかでは過剰にすぎる。
実況中継することで、一歩の距離が生まれ、噛み殺される訳でもなく、放たれる感情の矢が刺さっても何ら実害がないと諒解できて、一段上位の次元に立つことにもなるから、一見劣位に見え実は精神的には優位にあって、全体が見渡せ解決の糸口も見出しやすい。
それに何より、反論せず推移を見守ることがそのまま消火活動につながるから、鎮火早まり延焼も避けられる。
荒ぶる感情は右肩下がりで鎮まって、ぶり返さないので事後も好ましい。
酷いときには、感情の二日酔いみたいに数日に渡って毒気が抜けず、息をするたび毒矢が飛ぶということになってしまう。
が、軽く済めば、一体何があったのだろうと憑き物落ちたみたいに爽やかで一晩たてば寝覚めもいい。
言うことなし、すこぶるよしと言えるだろう。
感情のブラック化は一時的で特異な現象。
そんなときに道理を説いても詮無きことで、その状態を固定的な属性と見れば人物を見誤る。
渦中に入って巻き込まれるのではなく、何が起こっているのかまずは見ようとすること。
どんな場合にも必要な心がけと言え、それが事態を収束させるのに役に立つ。
もし万が一、ブラックが日常という人がいるのであれば、その人は原始の時代を生きており、通るところ触れるものすべてがジャングルといった様相になって身近な人にはしんどい話であるが、太古、人はそのような場に身を置いていたのだから、その場合には腹をくくるしかないのだろう。