ジムで走って風呂屋に寄った。
筋骨隆々で真っ黒に日焼けした若者がいた。
洗い場で隣り合い、わたしが流した泡などが彼の足元に流れわたしはちょっと気遣うが、彼はまったく意に介す様子がない。
他人の泡が流れてくれば、わたしならすぐに足を上げ避けるので大違いである。
そのように各場面で彼我を見比べなどして風呂を出て、いつものとおり自販機で缶ビールを買った。
夕風に吹かれつつ缶ビールを片手に歩くとき、心は平穏の極地に至る。
こんな風にいつも円みある心持ちで過ごせたら、どれだけ幸せだろう。
そう思いつつ、先日の朝日新聞GLOBEの記事について考える。
特集は「怒り」。
日本アンガーマネジメント協会代表理事の安藤俊介さんによる怒りの定義が紹介されていて、その的確さに感心させられた。
『怒りとは、先制攻撃ではなく、攻撃されたという防衛感情。
そして私たちを怒らせるものは、特定の誰かや出来事ではなく、「こうあるべきだ」と信じている自分の理想と現実のギャップだ。
出来事を自分の価値観をもとに意味づけし、「許せない」と感じたときに怒りが生まれる』
身近な話になぞらえてみる。
例えば、「おまえの母さんデベソ」と罵られたときのようなこと。
「おまえの母さんデベソ」といった類の悪し様な言葉をぶつけられたら、上記の定義どおりの作用によって感情がジャックされたちまち相手に怒りをぶつけてしまいかねない。
即座に「あんたの母さんこそデベソ」だと言い返し、同次元での視野狭窄な他責のラリーが続いて、ついには父さんもデベソとなって怒りの火は燃え広がっていく。
そのように怒りの要素が増えていき収拾がつかないということになるから誠に怒りは厄介だ。
GLOBEの記事では対策として、状況を「変えられる」か「変えられない」か、自分にとって「重要」か「重要でない」かの2軸で振り分けて対応を考えるべきとあったが、火事場で理屈の出る幕はないはずで、感情を制御するのは難しく巻き込まれたら事はマイナス方向に向かうだけだから、現実的にはさっさとその場を離れる、という話にしかならないだろう。
距離という地の利があればそれを利用しない手はなく、もし例えば高速を走るクルマの運転席と助手席といった具合に距離がないなら心頭滅却すれば火もまた涼しと自らに言い聞かせ、トイレを我慢するみたいに吐き出しようのない怒りを押し留めるしかないだろうが、これは苦しい。
おまえの母さんデベソ、と言われたら、すぐにその言葉から離れ、その場から離れ、着信を拒否し、相手の母さんや父さんが浮かんでそこに飛び火しないよう目先を変えなければならず、そのためには感情を昇華するための思考の行く先をあらかじめ用意しておいた方がいいだろう。
たとえば大海をそこのけそこのけと疾風怒涛の勢いで泳ぐホホジロザメ。
凄まじい破壊力で獲物を仕留めすべて丸呑みにしてしまう。
移動に次ぐ移動でひとつところに留まることなく、些末なことにチマチマとかかずりあっている暇はない。
ちなみにこの昼、たまたま実家近くを通りかかったので、先日食べて美味しかった寿司とびこめで上にぎりを頼んで、母へのみやげとした。
たとえば、おまえの母さんデベソと言われたら、むしろ儲けもの。
そのように考えて、言い返すエネルギーを転換しそのぶん自分の母を大事にすればいいのである。
そして、ジムで走って心の焦げをそいで風呂で洗い流せば、あとは快適、最上の夕刻を過ごすことができる。
筋骨隆々で黒光りした知性は、ホホジロザメのごとく怒りなど一瞬で噛み砕いてすでにその場におらず怒りをも腹の足しにしてしまう。
そんなイメージで臨めば、怒りがもたらす不本意な結果に暗澹となること回避できるのではないだろうか。