時間などそもそもが降って湧いたようなものであるから、それに値打ちつける気はさらさらない。
命尽きるまで時間はぐるりぐるりと円環し、過ぎ去ろうがまた舞い戻ってくる。
それに時至ればもはや時間感覚も失われるのであろうから、そういう意味では無尽蔵。
だから、持ってけ泥棒という話にもならない。
いくら大判振る舞いしても時間自体が失われることはない。
しかしその一方、時間を元手に糊口を凌がねばならないことも冷厳な事実である。
時間自体はタダではあるが、あまりにもおおらか、その時間を換金せぬままだと干上がってしまう。
そう考えれば、相手の時間を大切にする、という心がけは人として弁えるべき当たり前の常識だと分かる。
自分の時間はタダだが、相手の時間はそうではない。
時間、大丈夫?
そう気遣うのは、人として不可欠な礼儀作法ということになる。
だからごくまれに、さも当たり前のように他人の時間に無頓着な人がいると唖然としてしまう。
思慮も想像力も欠いて、つまり何らのデリカシーもなく土足で相手の時間に踏み込みそこで長居する様は、ある種の侵攻侵略と言っていいかもしれない。
しかし皮肉なものでそういう人に限って、とても大事な方々につながっているから邪険にできずあしらえず、事なかれ戦略を採択せざるを得ない。
地団駄踏んで耐えて凌ぐ間に過ぎ去っていく時間たちの背は消沈しているように見える。
占領者に差し出された時間たちは足蹴にされただの無に帰していく。
気前よく振る舞うときその時間は自らを満たすが、不本意にも奪われるときには命削られるような苦しみを伴う。
対価あればまだ救われもするがそうでなければ人生の一部を食い散らかされただけ、という話で終わる。
時間を分かち合い与え合える仲は限られている。
相手の時間に対しては最大限の配慮を払わなければならない。