環状線に遅れが生じていた。
東西線を使うことにした。
快速に乗り換えるためいったん尼崎で電車を降りた。
待ち時間があったので構内の本屋をちらとのぞいた。
『すべての子どもは天才になれる、親の行動で』とのタイトルに目が留まり、明石までの道中、手に携えることにした。
蓋を開ければ話半分で聞き流す程度の雑談といった内容であった。
行きと帰りの計2時間。
何か得るものはないかと深追いしたが、タイトルに喚起され知りたいと思った天才への道筋は、わたしの頭が悪いからなのだろう、その手がかりさえ見出すことができなかった。
一言にすれば、設計図もなければ部品もないプラモデルを買ったようなもの。
読解力のないわたしにとっては、そんな感の残る読書となった。
分かったことは2点。
どの国のどんな制度を指してのことなのか定かではないが、著者が欧米の教育の在り方を礼賛していること。
その一方、日本韓国中国といった東アジアの国に対しては、その暗記偏重と学歴偏重が子の能力の芽を摘んでいるとして否定的な評価を下していること。
欧米の教育を受ければ天才になれるが、東アジア的な教育だと出来損ないになりかねない。
著者の主張の枝葉を削ぎ落としていけば、そんな一文に収束するのではないだろうか。
クリティカルシンキングを推奨する著者にしては、ずいぶんと目が粗く大雑把な教育観のもと、賢い親の在り方が説かれ天才について語られる。
4200人以上の子どもの教育に携わった経験が背景にある、そう思って読めば、普通の方々は説得力を感じるのかもしれない。
賢い親はああするこうするこう考える。
随所にそんな断言口調が見られ、賢くない親であるわたしは、そのたび欧米風の賢い親の虚像がちらついて違和感を覚えた。
わたしは著者がする商売の客層ではなかったということなのだろう。
明石からの帰途、西宮で用事を一件終え、夕刻過ぎに直帰した。
家に帰って真っ先、風呂を洗って沸かそうと思ったがすでに浴槽はツルツルだった。
見渡せば家中がピカピカ。
掃除屋さんが来た日は心まで晴れやかとなる。
当然家内はいつにも増して明るく機嫌がいい。
夕飯のつき出しは、市場近くの魚屋で買った刺身盛り合わせ。
なんでこんなに美味しいのだと一口ごとに頷き合って家内と分けた。
続いて生ハムサラダと鮭のムニエルが出て、ラストの締めは豆腐がたっぷり入った台湾風豆乳スープ。
ビールを互いに注いで飲み食を囲んで、BGMはメサイアのハレルヤ。
サウンドがトリガーとなって家内の高校時代の話になった。
音楽に力を入れる学校で授業が週3コマもあった。
最大の見せ場がクリスマス礼拝。
各学年各クラスが賛美歌を合唱し、真剣にその優劣を競った。
だからいまも家内はドイツ語で歌える。
いつしかBGMに家内の歌声が混ざって音声多重の合唱となった。
子らの帰りを待ちつつ、わたしはその歌声に耳を傾けた。
賢い親ではなく子も天才からはほど遠い。
日々惑いつつ、なんとか力を合わせて生きている。