早めの帰宅となりそうだったのでその旨家内にメッセージを送った。
しばらく経っても応答がない。
夕飯について家内の意向を聞かぬまま家に到着した。
玄関に幾つも靴があって、わっせわっせとものものしい。
掃除屋さんが来ているのだった。
その対応があって家内から返信がなかったのだろう。
荷物だけ置いてわたしは駅へと引き返した。
何しろ空腹。
掃除が終わるまでとても待っていられなかった。
久々、駅前にある焼鳥屋の暖簾をくぐった。
昔はたまに顔を出していたがどういうわけかここ数年疎遠になっていた。
キリンビールをコップに注いでまずは一杯ゴクリと飲み干した。
そして皮を皮切りに、キモ、心臓、どんどん、うずら、たまひも、つくねと頼んでいった。
注文しても返事がない。
昔から一貫した店主の無愛想ぶりが心地いい。
寡黙に味わってこその焼鳥だろう。
懐かしの美味を静かじっくり味わって瓶ビールは2本に及んだ。
しかし昼を食べそびれていたのでそれでは足りず、続いてわたしは真隣にあるほていに向かった。
引き戸を開けると同時、スタミナそばをください、と店主に声をかけた。
立ち食いそばの客は引きも切らない。
続いてやってきた客は店主に告げた。
天ぷらそば。
間を置くことなく次の客も入ってきた。
その客はこう言った。
天ぷらそばで。
この「で」の有る無しで大違い。
多く語らずとも「で」があることで、後に続くはずの「お願いね」といったニュアンスが伏せたまま伝わることになる。
単に「天ぷらそば」とだけ言い放てばつっけどんに響くが、「で」が付け足されることでたちまち耳あたりがよくなる。
言葉はこの世にオギャーと生まれ落ちた後になって生成し備わる一種の器官のようなものなのだろう。
器官であるから発育や感度に差があって、だから「で」の有る無しが生まれることになる。
世には他人の気持ちが全く分からないという人がいる。
悪気などなく、実際全く物の見事に分からない。
これはおそらく言葉という器官の発育と感度といった問題に帰着する話なのではないだろうか。
そしてその器官については目に見えないから、ちょっとした言葉遣いで気分害されるようなことが起こり得る。
が、もしその発育の不十分が可視化されれば、そんなことで感情左右される方がよほど変ということになるだろう。
そばをすすり終えて帰宅する。
一人で外食してきたことをずるいと家内はなじるが、行き先を知れば十中八九誘ってもついてこなかったはずである。
わたしには十分に美味しい店であっても、所変われば品変わり、人が変われば評価も変わる。
味覚も当然、発育と感度に差のある器官の一つということである。
これも言葉と同様に不可視であって、舌を凝視したところでその差を看破するなどできやしない。
ややこしいことは口にせず、次は誘うよとだけ家内に言ってその場をおさめた。