朝5時に起きる。
家内の旅支度を手伝って家を出たのが6時過ぎ。
助手席に家内を乗せクルマ走らせJR尼崎駅に向かった。
駅のロータリーに着くと出発間近の空港リムジンバスがちょうど停車中だった。
その真後ろにクルマを停め、家内が乗車チケットを買っている間にスーツケースを運んで係員に預けた。
じゃあ、また。
その1分後にバスは発車し、それを見届けわたしは事務所に向かった。
前夜、旅立ちのお祝いに家内と白ワインを飲んだ。
お酒のあてはわたしが市場で買ってきたマグロとウナギ。
しばらく日本を離れる。
それを思えば適切なチョイスだっただろう。
子育てが一段落し、いよいよこうして家内は少し長めの旅行を楽しめるようになった。
これでわたしの都合がつけば夫婦で旅行三昧となるのだろうが、仕事柄、近所は自由にウロウロできても数カ国をゆっくり巡るような旅には当分ありつけそうにない。
それでも家内が旅に赴くのであれば、わたしが行くのと同じこと。
家内からしょっちゅう写真が届くだろうしそれでわたしの旅情も深まることになるから同じ日常を過ごすのであってもそれが良きスパイスとなって毎日が彩られる。
子育てにかかりっきりとなってかれこれ十数年。
いつかそうなるようにと思い描いた事柄がいまになって実現していく。
倦まず弛まずこれまでの道のりを地味に地道に歩いてきたからこそ、そのプロセスすべてが未来への準備となって、つまりはささやか夢実現の積立貯金のように作用して、だからいまそれを元手に実現の楽しみにありつける。
長きに渡って頑張っていればいろいろなことがやがては実る。
そう身をもって知り、道中で学んだ実のある何かを子らに伝えられればこれにまさる喜びはない。
これまで同様この先も山あり谷ありであろうが、時の時、という瞬間がひょっこり姿を現しそれですべてが報われる。
そして時間は円環する。
時の時は様々な姿形を伴って何度でも訪れるから生きて在る限り楽しみは尽きないということになる。
良い旅をと願い、これから送られてくる写真やメッセージなどにわたしはその都度釘付けとなる。
離れてはいても、最上の一人旅に臨む家内とともにやはりわたしも同じ旅の途上にあると言っていいのだろう。