午後の遅い時間帯、一時間ほど間が空いた。
目の前に喫茶店。
そこで書類に目を通すことにした。
禁煙スペースの席に座るが、喫茶店自体が狭いため喫煙スペースからダイレクトに煙が届く。
禁煙スペースというより受動喫煙スペースと言えた。
たかが煙、心頭滅却すれば煙もまた清涼。
そう言い聞かせるも効果なく、まもなく頭がくらくらとし始めた。
目が回るような酩酊感。
眼前を見ると、がら悪そうなおばさんらがケラケラ笑って煙を吐き出し続けている。
耐えがたい。
コーヒーを残し席を立った。
表にでると通りかかったおばさんに声を掛けられた。
なんと奇遇。
うちの事務所の上の階で働いていたおばさんだった。
ずいぶん前にやめられ、幾星霜、すっかりお歳を召されていた。
「おぼっちゃんは元気ですか」
それがおばさんの第一声だった。
その昔、子らはしばしばうちの事務所で勉強していた。
用もないのに上の階にあがったりするものだからおばさんと顔見知りになった。
子らが小学生の頃のことである。
子らの面影がおばさんの記憶に残っていてたまには思い出す存在だったのかもしれない。
無事中学生になって高校を卒業しいま上の息子は大学生で、下の息子も再来年には大学生なんですと話すとおばさんはあらまと目を丸くして驚いた。
分厚い年月をかき分けるようにし子らの当時を思い出し、しかしそれが大学生の像には結びつかない。
そんなとき目はただただ丸くなるのだろう。
子らの話をすることはわたしにとって幸福で、煙によるクラクラ感はいつしか雲散霧消していた。
ではまたと言って別れ、近くにコメダ珈琲があったのでそこで時間を潰すことにした。
場末の喫茶店より断然快適で心地良い。
コーヒーを飲みつつ資料を読んでいると、メールが届いた。
二男が受けた模試の結果であった。
成績良好、かなりいい。
単なる模試の結果に過ぎないが、親はバカ。
それだけのことで心が弾んだ。
で、思うのだった。
料理上手な女房がいて、かわいくおもろい息子が二人いてまるでバカボンとハジメちゃん、それに心から敬える父母がいて、愛すべき弟と妹がいてこれまたかわいい甥っ子姪っ子たちがいる。
それに加えて友人らは揃いも揃って強く逞しくて心優しく、互い助け合ってその人間関係はより強固になって実にますます心頼もしい。
第一、毎日おいしいものが食べられてカラダも丈夫。
なんと恵まれているのだろう。
当たり前のことのようにそれら恵みを享受して、しかし少し考えれば不思議の念に捉えられる。
そうなる根拠が見当たらない。
どう考えても、たまたま、以外の理由がない。
しかしそれだと心覚束ない。
恵まれることがたまたまなら、そうでないこともたまたまで、たまたまであればいつ向こう側に転んでもおかしくない。
それではおっかないのでたまらない。
だからそれらしいような因果をこさえてそれにすがることになる。
たとえば、日頃の行い。
毎日早起きし、月に一度は神社で頭を下げて手を合わせ、真面目誠実に仕事し役割こなし、地味に静かに日々を送り、父母も祖父母もそうだったから、こうなった。
いわば幸福の方程式。
そうしてさえいれば、いい空気を招き寄せることができるという信心のようなもの。
実のところは死や厄災に縁取られた生身のカラダ、そう気づいてしまうと信心なくして片時も心休まらない。
リアルな真実よりは心の平和。
だから今日も明日も明後日も愚直真面目に生きることになる。