先日のこと。
公証役場で遺言の立会いをする機会があった。
ご婦人は、おっしゃる年齢が冗談かと思えるほどかくしゃくとしていて饒舌だった。
夫に先立たれたとき、あれこれ手続きが面倒だった。
だから、後に残す者に手間がかからぬよう終活を始めているとのことだった。
いろいろ話をされるなか、しきりに口にしていた言葉が強く印象に残った。
死んだ後で息子たちが揉めないようにする。
そのことだけを考えている。
兄弟なのにいがみ合い、口もきかない、世間にはそんな例が山ほどあって、もしそうなったら死んでも死にきれない。
不仲の種を残すわけにはいかない。
ご婦人が公証人の先生に伝えていたのはその一念だった。
京都から奈良に向かう電車に揺られながら、ご婦人の言葉を思い出し続いてその流れで自身の父のことが頭に浮かんだ。
このところ父は疎遠になった親族などを訪ね歩いている。
これも死に支度の一環なのかもしれない。
身内にギクシャクしたものを残して向こうに行くわけにはいかない。
ずいぶん気の早い話ではあるが、そんな思いがあるのだろうと父の胸中を思った。
やはり何事も原因と結果。
ついこのあいだ長男と電話でそんな話をしたばかりだった。
結果は結果。
如何ともし難い。
しかし、多くは結果をどうこうしようとする。
その方が手っ取り早く思える。
そして結果は変わらない。
やがて気づくことになる。
わたしたちが働きかけることができるのは原因のみ。
自身の日々の行動や言動のすべてが原因となって、因果のプロセスを経て結果を導く。
着眼すべきは結果ではなく原因の方であり、だからそうと知る者は、自身がよい原因となるよう心を砕き日々精進を重ねる。
人の心を踏みつければ、それは巡り巡って自分の子に返ってくるかもしれず、人によくすれば、巡り巡って世の中が少しでもいい方向に変わっていくかもしれない。
そんな思いを無意識のうち胸にとどめているから、事があれば誰かを責めたりするより先に、自身に責めがないか問うことになり、実際、自責を欠いて問題は解決しないから、そこから良い循環が生まれ始めることなる。
身の回りを見渡せば、原因と結果についてよりよく理解できる。
よい原因になろうとするメカニズムのなかに置かれた者と、結果だけを求める者とでは、結果は大違い。
食事作りに余念がないうちの家内などをはじめ、うちの息子らはよい原因になろうとする者らに恵まれた。
そんな風に必死に愛されているのだと息子に語り、彼はそれが腹で理解できたのだろう。
なるほど、と一言つぶやき、思いを染み込ませるようにしばらく押し黙った。