年端も行かぬ子が部屋に置き去りにされ亡くなった。
母親が男と遊びに出かけて放置したというのだから、ニュースを目にして朝から滅入る。
誰であれ我が身が可愛く我が身が大事。
自分ファーストであることが生きる本質みたいなものであるから、それを以ては責められない。
母親だって楽しく幸せに生きたいに決まっている。
デートの際、子が邪魔になる。
少しくらい放っておいても大丈夫だろう。
その楽観が仇になったに違いなく、決して娘がかわいくなかった訳ではないと思いたい。
結局は想像力という話に帰着するのだろう。
世にはおめでたくも楽観的な人がいて、その正反対、よせばいいのにというほど悲観的な人がいる。
いろんな人がいて人類。
だから、一概にどっちがいいなど決められない。
しかし、子を育てるという局面に着眼すれば、後者が適任だと容易に想像がつく。
前者が子を育てれば、周囲は心配でたまらず当の子どもも気が休まらない。
一粒の楽観が、周囲を悲観の色に染めていく。
たとえば、クルマに子を置いて買物したり、小さい子だけで留守番させて遊びに出かけたりといった場合、まさかの事態が起こり得るなど、楽観的な母親は露も思わない。
周囲は気が気でないが、まさかといった事態はまさかと言うだけあって生じ難く、だから何事もなかったようにつつがなく日常の時間が流れていく。
一粒の楽観は楽観のまま、周囲の悲観の色だけが深まっていく。
あとは事が起こらぬことを祈るだけ。
一方、悲観的な母親は、万に一つの事態にも備えようとする。
心配し過ぎと謗られようと笑われようと、親として手を講じようのない状況に、取り返しのつかない状況に子らを置かないよう心を砕く。
だから、片時であれ幼子を放置するなどあり得ない。
悲観のすべてを母が担ってくれるようなものであるから、子らは安心。
その大海原に揺蕩ってすくすくのびのび心ゆくまで、楽観できる。
母が剣となり盾となり人柱となって、子らの安住を確保する。
One for All、彼女がいて周囲もさぞかし心丈夫なことだろう。
知の有無が両者を分かつ。
知を欠けばご都合主義的な見通しが視界を覆い、知が宿ればありとあらゆる事態が頭を巡る。
良薬は口に苦し、というとおり。
子を託すなら悲観が無難と言えるだろう。
もちろん、いくら考え尽くしたところで、この世のなか一寸先は闇、何が起こるか分からない。
今日も河川は反乱し、地は揺れ、往来をクルマがひっきりなしに行き来する。
だから、とどのつまりは確率の神さまに委ねる話になってしまうが、備えあれば憂い少なく、選択が可能だとするなら、やはり安心の確率の大きい方を選ぶのが合理的ということになるだろう。
蛇足になるが受験という局面であっても話は同じ。
親のプレゼンスの大きい中学受験など尚更。
楽観的な親の選択はおめでたく、その分、結果はおめでたいものとはなり難い。
悲観に徹する、それが親の務め。
こういった事件が耳目に触れる度、その確信が強くなる。