ジムを終えぶらり家へと歩を運ぶ。
耳に流れる音楽が演歌になった。
冷え込む季節、こぶし利かせた歌声がなぜかじんわり心にしみる。
行ったことも見たこともない北国の情景を思い浮かべそのなかに身を置いて、ほとんど忘我。
情緒に満ちたその小宇宙にひたって、ずっとこのまま。
そんな願いも虚しく、子の泣き声で心地よいまゆが裂けて破れてかき消えて、わたしは地元の路上に引き戻された。
自動販売機を指差し子が泣いている。
数歩先を歩く母が、早くこっちへと子を急かす。
子がジュースをせがんで粘り、そんなもん誰が買うかボケと母が突っ撥ねているという図であった。
おそらく子は味をしめている。
粘りに粘って母が折れ、まんまと甘味にありついたという経験があるのだろう。
だから子は粘り、母が手を焼くということになる。
顛末を見届けずそこを過ぎ、自身の子らについて思い返してみた。
彼らが自販機の前でぐずるなど、一切ないことだった。
そもそも、彼らはいつだって肩から水筒をぶら下げていた。
そこにはお茶。
喉が渇けば、手元に水筒がある。
自販機に目が行く以前、渇きは癒えた。
だからいまもって自販機には目もくれず、敷衍してそんな行動様式が根付いたからだろう、どこであろうと物欲しげな挙に出ることがない。
たとえば、服も同じ。
どこにでもあるような廉価なものを着せてきたからだろう。
いい服を着て発芽してしまう欲とは無縁。
着の身着のままで頓着しないバンカラ気質に育ったから、男子として実に健全な話と言えるだろう。
子ども時分に味わった甘味の量が欲の嵩を膨らませ、子ども時分に身についた行動様式が集積して人格が形作られる。
そう思えば、千尋の谷に突き落とすのはやりすぎにしても、ちょっとくらいしょっぱい味付けで育てた方が、結局は子のためになるのかもしれない。
そんなことを考えているうち、家の灯が見えてきた。
もう夕飯の準備は整っていることだろう。