夕飯は鴨鍋。
具材をポン酢とゴマダレで食べ較べながら、家内の英会話レッスンに耳を傾けた。
今夜の講師はデリー在住のインド人男性。
ジャーナリストというだけあってなかなか知的。
その喋りはかつて深夜のJ-WAVEでひときわ光彩放っていた天才モーリー・ロバートソンを彷彿とさせた。
話題はインスタ。
虚実綯い交ぜの見映え文化が彼の地でもすっかり定着しているのだという。
彼は言った。
インスタと無縁だった世代は幸い。
いまの若い世代は気の毒だ。
比較の総当たり戦とも言える状況に置かれれば、最後に不全感と孤独感だけが残る。
だから不健全なことこの上ない。
聞いていて思う。
なるほど。
だからもし過剰適応してしまうと自我存亡の危機に陥りかねない。
偽ブランドまで担ぎ出し家族総出でパチモンとなって笑顔浮かべる家族の肖像が頭に浮かぶ。
負けん気の強さと気性の荒さが笑顔の奥に垣間見え、胸苦しいような思いとなる。
持ち物で人を品定めし、それで人を上下に区分していれば、いずれそうなるのは当然の帰結と言えた。
品定めの矢は結局自身をも射抜く。
見映えが自尊感情と分かち難く結びつくから、いちばん見下すはずの「偽薬」をも総動員するという自家撞着さえ厭わない。
本物ならまだ情報として価値がある。
が、偽物の場合、当の本人は満たしても、インド人ジャーナリストが言ったとおり巡り巡って誰か他人の心に影を落としかねない。
そう考えれば、幼稚な小細工が導く結果にしては罪な話とも言えるだろう。
笑い話に思えてしかし笑えない。
これからは誰もがしっかりしなければならない、ということだろう。
見映えなど最後の包み紙。
最優先にするものではなく、だからそれで競うなど何かの倒錯。
そんな不毛なエネルギーの争奪に巻き込まれぬよう、一線画す価値観をごく小さいうちから養っておくべきなのだろう。