電話が鳴ったとき、家内は英会話レッスンの真っ最中だった。
わたしが受話器に手を伸ばした。
家で固定電話が鳴ることはほとんどない。
前夜は夕食時にかかってきた。
読売新聞の勧誘だった。
押し売りは困ります、とだけ言って電話を切った。
また何か営業の電話だろう。
はい、と無愛想に受話器を取った。
大阪星光38期の方からだった。
東京星光会にて新入生歓迎会を6月19日にズームで開催するという。
律儀にもわざわざ実家に電話をかけて案内しているのですか。
ありがとうございます。
わたしは38期の後輩をねぎらった。
彼は言った。
いえいえ、手がかりが実家の電話番号しかないので、こうするしかないのです。
一瞬、言葉に詰まったが、息子に伝えておきますと言って電話を切った。
一軒、一軒電話するなど、竹槍で周知を図るようなものである。
首都圏に進学する生徒に対し、せめて上京するタイミングで一斉に東京星光会の存在を知らしめるような流れがあってもいいのではないだろうか。
うちの二男をはじめ東京の大学に進学した66期十数名は、東京星光会といったものがあるとは知らず、今になって実家の親を通じその情報に接してもピンと来ないに違いない。
心優しい先輩らは、川ひとつ隔てた向こう岸にいる。
そんな図が浮かんで思う。
なんて勿体ないことだろう。
この日京都での業務の合間、長男から電話がかかってきた。
受講者が少ない対面の講義があって、とうとうこの日は教授と一対一になったという。
授業後、教授と雑談になって話は一時間にも及んだ。
その流れのなか教授の同期が、ある会社の部長職にあると分かった。
息子が関心を寄せる領域であったから、その人物と引き合わせてくれるという提案は、息子にとって願ったり叶ったりであった。
こんなことが当たり前の流れで起こるのだから、やはり慶應のつながりは凄まじい。
長男の話を振り返りつつ、星光のことを思った。
慶應に比べて遥かに所帯が小さいのだから、その分、つながりがもっと強固であってもおかしくない。
東京星光会の方々はみな人柄よくかつ錚々たる顔ぶれ。
星光愛に満ちて、親身に接してくれる。
そんな先輩が東京に大勢いる。
疎遠になれば、やはりただただ惜しい話と言うしかない。
地縁血縁が薄れるご時世であるからなおのこと。
同窓生は大切な身内。
そのかけがえのなさについて学校も思いを共有してくれればと思うが、あまり関心がないようなので、結局、川ひとつ分の距離が生じることになる。
66期十数名のうち、OBらのもとへと渡っていく数はあまりいないのではないだろうか。
そうであればますますこのつながりは弱化する。
残念でならない。
さて、電話をくれた38期は誰だったのだろう?
耳に残る名の一部を手がかりに探り当てようと思うが、術がないことにすぐさま気づいた。
せっかく電話まで掛けてくれたのに、ほんとうに残念なことである。