結婚当初、家内はほとんどお酒が飲めなかった。
一方のわたしは習慣飲酒者。
飲兵衛にとって、お酒は一種の句読点みたいな役割を果たす。
一日の終わりにそれは欠かせない。
ともに暮せば句読点が一致する。
つまり、家内の暮らしにお酒を持ち込んだのはわたしに他ならないということである。
もしお酒が違法薬物であれば、「娘になんてことしてくれたんだ」と義親から謗られるような悪行だろう。
が、幸か不幸かこの国においてお酒は日常のなかに溶け込んでいる。
なんの違和感もなくだんだん家内は嗜む程度は飲むようになり、やがて楽しむくらいには飲み、そして、飲むと楽しいといった具合に家内とお酒の距離は縮まっていった。
夜、家内と一緒に飲む。
いつしかそんなシーンがうちの家の一日を締め括る幸福な絵柄になった。
しかしどうやら、わたしは飲み過ぎた。
カラダの内で数値の悪化が進んでいたから、とても幸福とは言い難い話だった。
それで結婚当初とは立場が入れ替わった。
家内が飲んで明るく、わたしはそれをみて楽しむ。
間接的な立場で飲酒に接し、それが句読点となる日常が定着した。
日曜日の夜、ぶらり入った回転寿司屋のテーブル席で家内と向かい合った。
わたしはノンアルを飲み、家内のグラスはビールから知多のソーダ割りへと代わった。
明るさがなみなみとあふれて、飲まずとも楽しい。
そして、酔うことがないから、夜、意識は静謐と明瞭の度を増して冴えに冴える。
結果、寝起きだけでなく寝る前にも仕事が捗る。
自身を機能として捉えれば、これはかなりの大改善、進化とも言えるだろう。
このまま行けば先々、何か実を結ぶものがあるかもしれない。
数値を悪くするより、はるかにいい話だと思える。