土日両日とも朝から武庫川に向かい、城達也のジェットストリームを聴きながら川沿いを走った。
ナレーションを含めてすべてが上質な音楽と言え、名曲を懐かしみつつ言葉の一つ一つにも聞き惚れた。
この週末はカラダのケアを最優先にした。
だから、走り終えての行き先はみずきの湯で決まりだった。
クルマで武庫川の対岸に渡り、着いてすぐに寝転んだ。
岩盤浴だと弛緩が積極的なものになる。
弛緩を意志するのであれば、これほどお誂え向きの場所はない。
ぽかぽかぬくぬくと過ごし、全身が癒やされ、心は至って平穏。
そして、空っぽになった頭に浮かんでくるのは母のことだった。
病床にて母が過ごした日々についてわたしは思い巡らせた。
どのような思いが母の心中を去来していたのだろう。
意識の境を行きつ戻りつし、どの時点においてもおそらくわたしたち家族のことが浮かんでいたに違いない。
母の内でそのとき結ばれていたはずの像にシンクロしようと思いを向ける。
が、わたしから発する思いのすべては空を切るだけのことだった。
この空間のどこを探しても、母の内にて思い描かれたそれら場面はもはや存在しない。
どうあがいても、そこに接続したりそれを復元したりといったことは不可能なのだった。
手が届かない、そう悟る他なかった。
緊急事態宣言が発出された昨年のはじめ、両親もわたしもともに十分気をつけていた。
万一にもウイルスを持ち込まぬようわたしは実家に近寄らず、用事がある際は駅のベンチなどで父とやりとりした。
それほど念入りに警戒心を保ち合っていた。
しかし、三月下旬に緊急事態が終了し、そこに緩みのつけ込む余地が生じてしまった。
緊急事態が明けたとのことで結婚式の案内状が親戚から届いた。
わたしが出席するから二人は家で留守番していればいいと両親を制し、そこまでは良かった。
が、その案内状が緊張の封を切り、母の心の内に緩みを引き込んでしまったのもまた確かなことだった。
同時期、同じ親戚が京都への日帰りバス旅行に母を誘い、母がついて行ったことをわたしは後になって知らされた。
その日、4月11日と言えば、新規感染者が増え続け大阪だけで日毎千人に迫り、以降、連日にわたって千人超の陽性者がカウントされたのであるから、まったく油断ならない時期だった。
実際、府知事は不要不急の外出をせぬよう毎夕の定例記者会見で呼びかけていた。
後日、わたしはバス旅行の主催者に問い合わせの電話をかけた。
思ったとおり、一行のなかに陽性者が生じていたとのことだった。
そんな時期にどのような了見で決行したのかとわたしは問うたが、返ってきたのは、感染対策はしっかり行っていたという言葉だけだった。
主催者に詰め寄っても仕方ない話であった。
参加したのは母であり、そして、そのことをわたしは知らず、わたしたち家族は誰も母を止めなかった。
そうすべきだったという打ち手がすべて事後的に明らかになっていった。
つまり、わたしたちはまさに鍋の中のゆでガエルだった。
日常に安住しきって、進行している事態に理解が及ばず、まさか、まさかと言う間に家族の誰もが一歩ずつ出遅れた。
そして気づいたときには、取り返しのつかない状況に立ち至っていたのだった。
楽観が微笑ましいのは安全地帯にあるからであって、そこを突破されてなお楽観を捨て切れないのは愚の骨頂で、だから後手に回って為す術をただただ失っていったのだった。
母は帰ってこない。
それがどういうことか。
日が経つにつれ、その取り返しのつかなさを家族で実感せざるを得ず、心に差す影はただただ濃く深くなっていく。