その昔、家内を当てこすった人物はこう言った。
「あんたには友だちおらんやろ、あたしには百人おるけどね」
そんな話を夫婦で思い出しつつ、友だち百人について考えた。
一人ずつ顔を思い浮かべて、すぐに気づいた。
わたしという箱には限りがあって、百など土台無理な話である。
かつ、その手狭な容量のなか各人が占める割合に大なり小なり差異がある。
つまり、様々な大きさの領土が足し合わされて、それでせいぜい数十程度といったものだろう。
そして、その空間の過半を息子二人と家内が占める。
おそらくこれは誰にとっても同じだろう。
家族という大きな石が主要部を構成し、その隙間を小さな石が埋めていく。
その伝でいけば、家内にとってはふたつの巨石ですべてが埋まるも同然だから、「あんた友だちおらんやろ」というのは指摘として正しく、そして家内はそれで満たされているのであるから一向に困らないということになる。
逆に百も友だちがあれば、一見豊かに見え、内実は砂利や小石の敷き詰められた薄きに失した世界に置かれているようなものである。
誰が重きを成すのか不明であるから空虚で、誰にも大した用がないから無為。
友だちが百人いる。
何の自慢にもならない話と言えるだろう。