早朝から仕事に励み、午後三時には一段落ついた。
事務所を出て近所のイズミヤに寄った。
密やか閉じていた意識に光と音がなだれ込んできた。
深海から水面に浮上したようなものであった。
そして気づいた。
買い物する女性の身なりがかなりいい。
谷六はちょっとした住宅街なのだった。
なるほど、タワーマンションが林立する地域だけのことはある。
惣菜などを見繕い、その足でわたしは実家に向かった。
下町であるから谷六とはまるで異なり、こちらの雰囲気の方が身体にしっくり馴染む。
ここでわたしは生まれ育って、だからどこにいようと、根はここに繋がっているのだった。
実家に寄るのは三週間ぶりのことだった。
家に上がると、ちょうど父が食事を温めているところだった。
そこに合流して、わたしは買ったばかりの惣菜をテーブルに並べた。
発泡酒を飲みながら父が言った。
おかん、ほんまにいてないんかな。
時々、物音がするから、いてるとしか思われへん。
私も言った。
ここに来ると、おかんが普通に暮らしているとしか思えない。
真面目な人やったから、あれこれ用事してそれで物音がするんちゃうかな。
それで黙り込み、二人して耳を澄ませた。
が、母は不在でその気配を感じ取ることはできなかった。
帰り際、この夏80になる父が、この夏53になるわたしに言った。
そろそろ仕事を縮小して、ゆっくりしてもええんちゃうか。
父が心配するほどわたしは忙しくない。
大丈夫、大丈夫、ぼちぼちやるわ、と言って家を出た。
父は55歳で引退した。
当時はそれが普通だった。
いつの間にかわたしもそんな年齢に近づいて、いま世間では定年が60歳だから、いよいよ仕事人生最終盤に差し掛かったも言える。
が、心身ともに至って元気で、さあこれからが本番としか思えない。
朝になればまた深海に籠もって仕事して、夕刻には浮上。
そんな日々を80過ぎても続けたい。
そう思うと母の笑顔が頭に浮かんだ。