世の中は東大出身者が動かしている。
西大和の学年主任は事あるごとにそう言った。
やはり東大は特別な場所。
そこに行けばすべてが叶う。
実に子どもっぽくそう信じ込む息子にわたしは言った。
そんな訳あるかいな。
ただ、受験を競技として見れば金銀銅の金程度であるに違いなく、それはそれで誉れなことだろう。
だから、まあがんばれ。
そんな話をしたのは5年も6年も前のことになる。
そして、子どもは教師の言葉を忘れない。
何かの陰謀論が心に留まってしまったかのように彼の中、もしかして、との思いは拭えなかった。
今回、就職活動を通じ息子は多くの東大生と知り合った。
東大生は別格。
そう思って、だから当初は身構えた。
しかしだんだん見方が変わっていった。
東大生と言っても、他大学の学生とさして変わらない。
他大学の学生同様、東大生であっても受けた会社を落ちまくり、一次面接の時点で落ちまくり、けんもほろろに落ちまくっていた。
確かに破格に優秀な人物も中にはいたが、それを言うなら早稲田でも慶應でも京大でも一橋でも同じ話で、要は、評価される人物と評価されない人物がいるだけの話であり、東大だから特別扱いされるといったナイーブな評価軸は実社会には存在しないのだった。
単なる就職活動という予選の出だしでそうなのであるから、社会人としての実戦がはじまれば、18歳時点の学力などますます後景に退いていくのは明らかなことだった。
「東大出身者が世の中を動かしている」との学年主任の言葉は、今回の就職活動を通じて「世の中を動かしている東大出身者もいるのかもしれない」といったレベルに希釈され、まもなく彼は「世の中はいろいろな人が動かしている」との真実に相まみえることだろう。
学力が有用であることは間違いない。
が、それはそれ。
いまのこの社会でそれを買い被り過ぎているのは、偏差値を信仰する象牙の塔の中に限られて、大の大人は忙しく、そんな話にいちいち耳を貸すいとまもない。