神戸線と宝塚線が尼崎駅で合流し大阪駅へと続く。
その向こうに進めば京都駅に至るから路線の呼称は京都線となる。
このところ人身事故が頻発している。
雨が降る頻度より多く、神戸線、宝塚線、京都線のどこかで誰かが電車に接触し、定型のアナウンスとともに電光掲示にて平板にその旨が告げられる。
もはやこれが日常の光景で、すっかり耳慣れ見慣れてしまっているから無感覚のままやり過ごしてしまうが、迫りくる巨大列車のもと自ら身を投げるのであるから、その実写を思い浮かべれば地獄絵図と言う他なく、令和四年の関西は引き続き地獄と地続きなのだと思い知らされる。
逡巡し今日は思いとどまったにせよ、そんな末路を念慮する者が多数潜在しているはずで、だからこれまでそうであったようにこの先も同じことが繰り返されるに違いない。
自らの足元を見つめてみる。
月曜の朝、普段よりも心身に掛かる「G」が強い。
いろいろなことが押し寄せて、やはりそれは重圧には違いないが、たんたんと業務をこなせば昼には失せて、夕刻にはすっかり解放されてふわふわとした浮遊感を味わえる。
想像してみる。
更に強烈な負荷に苛まれそれが際限なく続けば、ただ存在しているだけで苦しく怖い、といった状態に陥るのかもしれない。
そんな苦悶と恐怖が膨れ上がって煮詰まれば地獄も同然、どこかの地点で境がなくなる。
やはり地続き。
誰だって、何かの拍子にそうならないとは限らない。
雨が降り続き、蒸し暑い。
じわと噴き出す汗が垂れて首筋を伝う。
どのみち雨でシャツも水に濡れている。
無駄な抵抗はやめ、暑さに感覚を開く。
汗が流れるのに任せてみると、案外、清々しい。
で、思ったのだった。
やはりどうやらこの「開く」感覚がものを言う。
閉じれば淀んで行き詰まる。
だから、閉じてしまうのではなく、こまめに開く。
感覚を開き、心を開き、目を開く。
さあ、開いて開いて今日一日をたっぷり取り入れ楽しもう。
わたしの関心は次第、昼のメニューへと移っていった。