仕事を終えたとき、わたしは阿倍野にいた。
駅へと向かう道は飲み屋だらけで、家内はママ友らと出かけて留守だったから、ひとりで夕飯を済ませて帰ることにした。
地元の駅前で軽く飲み直して帰宅するとまもなく家内も帰ってきた。
この日家内が見聞きした話について二万語が繰り広げられ、それに耳を傾け、つくづく思った。
子どもたちは中高を一緒に過ごし大学に入って、そこで一件落着と話は終わったように見え、みなそれぞれに続きがある。
そして「その後」の話の方が、はるかに深くて重い。
果たしてその学部選びや大学選びは正解だったのだろうか。
他の選択肢が山ほどもあった優秀層ばかりであったから尚更そう感じる。
こんなはずでは。
人も羨む大学に入ってさえ、そんな思いにとらわれることが珍しくない。
そうならぬよう、「その後」についての情報も事前に盛りだくさんあった方がいいだろう。
いいように見え、実は全然ちがった。
何も知らないままだと、後の祭りという言葉を噛みしめることになりかねない。
わたし自身が若い頃、そんな思いに捉えられた当事者であったからこそよく分かる。
だから息子たちには「その後の真実」について事あるごとに触れてきた。
自分の人生なのだから、求めるべきは「自分に合った人生」であるはずで、進学や就職もそれに照らせば答えを見つけるのは容易に思える。
しかし若いと何やかや世間体や周囲の雰囲気といったノイズが入り込み、自分の声を取り違えてしまうといったことが起こるのだろう。
「その後」に至ってようやくノイズの奥に潜む自分の声にありありと気づく。
まあ人生は長く幾らでもやり直せるからそこからでも遅くはないが、ノイズに導かれての遠回りを息子たちにさせたいとは思わない。