暑いだけでなく嫌な気分がまとわりついて、いかんともし難い。
大助花子路線で行くのであれば、常にわたしが踏むべきはブレーキであるはずだったのに、この朝、誤ってアクセルを踏んでしまった。
つまり虎の尾を踏んでしまったのであるから一喝どころか数喝されて、ダメージが尾を引いた。
沈鬱な気分のまま天王寺駅のコンコースを歩き、ずんだ餅を売る屋台の前を通りかかって、ふと想像してみた。
いまこのずんだ餅を鷲掴みにして走り去れば、どうなるだろう。
わたしを包む沈鬱な覆いが取り払われて、別の世界が拓けることは間違いない。
しかし、もしほんとうにそんなことをすれば深刻な事態に陥って人生がパーになってしまう。
そうと容易に分かるから、わたしがずんだ餅に手を出すことは絶対にない。
で、続けて思う。
しかし、沈鬱な世界に覆われてどうしようもなく苦しく、自ずと景色の変わる見込みがないといった人もこの世の中にはいるはずで、そうであれば、その世界を一変させるために、突拍子もないことを仕出かすということは人として十分あり得る現象と言えるだろう。
つまり、ずんだ餅を盗んで追われる世界の方が、いまの現状よりはるかにマシという人がいたって何ら不思議なことではなく、敷衍すれば死んだほうがマシということも実際にはあり得るのだろう。
幸い、わたしはこの夜、友人たちと飲む約束をしていた。
だから、そんなことをしでかさずとも自ずと世界は変わるのだった。
午後7時、場所はハザマ君行きつけの堂島の魚坐だった。
このほど見事昇進を果たしたオーアサを祝う会で、そこにセノー君も駆けつけた。
4人で飲んで誰も喋り止まらず、料理は素晴らしく、思ったとおり実に楽しく、今日の午後にわたしを覆っていた沈鬱な世界などいともたやすく消え去って、喜びが弾けてまばゆいばかりの明るい世界でわたしはくつろいだ。
やはりチャンネルはいくつもあった方がいい。
だから友だちというのは、ほんとうに貴重でありがたい存在なのだった。
ハザマ君が率いて、二次会は北新地の名店、Bar 織田へと赴いた。
ここでハザマ君のキープする18年もののウイスキーをいただいたのであるが、店主がウイスキーについての知る人ぞ知る第一人者で、その話がとても興味深いものだった。
昨今、山崎や白州の評価がうなぎのぼりだが、しかし本場は別格。
エディンバラを訪れてこそ、ウイスキーの本当の素晴らしさを理解できる。
ああ、エディンバラ。
さかのぼること24年前の夏、新婚旅行でわたしは家内を連れて当地を訪れた。
しかし野暮なわたしは下調べもろくにせず、思い出に本場のウイスキーを飲もうなどと発想することすらしなかった。
わざわざそこまで足を運んで、ウイスキーを飲まないなど、あってはならないことだろう。
来年、わたしたち大助花子は銀婚式を迎える。
そこでエディンバラを訪れウイスキーで乾杯するというのも一案だろう。
そう想像するとさらに気分が楽しく盛り上がった。
「いま、ここ」以外にも。
人生を豊かにするうえで、やはりチャンネルはたくさんあった方がいい。