9月になって朝の空気がやわらいだ。
カラダを圧するような熱気が薄れてちょうどいい。
秋の香をかすかに含んだ風に吹かれ日曜朝の武庫川を軽快に走って家に帰ると、家内が今日の予定をあらかた決めていた。
さっさと支度しわたしは助手席に乗り込んだ。
家内が運転し混み合う前、午前10時には西宮ガーデンズにクルマを滑り込ませた。
丸福コーヒーにはすでに行列があったので、スタバに陣取った。
そこで家内の指揮のもと今後の旅行の計画を具体化していった。
ホテルを選び汽車の席をとり航空券を手配し食事処を予約した。
これでこの先の数ヶ月の見晴らしがとてもよくなった。
どの行き先の旅も魅力に溢れて甲乙丙丁つけ難い。
それらの旅程を行ったり来たり思い巡らせるだけで実に楽しい。
用事が片付き続いては昼。
どこも混み合っていたが、わたしたちはとんかつ屋の列に並んだ。
家内は特選と銘打たれたおすすめの品を選び、わたしはいちばん高いとんかつをいちばん多い分量のコースで頼んだ。
食べ終えて、次の予定は映画。
館内のTOHOシネマへと移動した。
『バービー』は人気の映画のようで、上映からしばらく経っているが席はほぼすべてが埋まっていた。
ライアン・ゴズリングと言えば『ドライヴ』の印象が強く、愚鈍極まるケン役が馴染んでいるようには思えない。
ちょっと頭が空っぽ過ぎて、いったいそこから何を感じればいいというのだろう。
ある種バービー的にナイーブな女子からすれば、男子はみなこういったものなのかもしれないと考えたりして関心を持とうとしつつも、興醒めて途中居眠りなどしてしまった。
一方、バービーについてはそのあり様が示唆に富み、半睡しつつも得るものがあった。
女子と生まれたからには「蝶よ花よ」と持て囃されて人生を謳歌したい。
そんな憧れが凝縮された理想のすががバービーで、だから女子はそこに自分の夢を投影し人形遊びに執心する。
しかし夢は夢であって、やはり現実とは齟齬がある。
二十代終盤、家内はわたしと結婚し、輝かしい娘時代と訣別しバービーとは対極にある究極の「生身」の世界へと追いやられることになった。
そこで言わば満身創痍となりながら、子を産んで、続けてまた子を産んで、言うことをきかないやんちゃ坊主二人を必死で育て、受験を潜り抜け、ホッと一息ついたらまた再度受験を潜り抜けるといった「切った張った」の世界を余儀なくされた。
映画ではバービーが意を決して生身の人間の世界へと進み出るが、家内となれば年季が異なる。
だからわたしは素直に思うのだった。
バービーとはあべこべに、今度はいよいよ家内がバービーになればいい。
もう十分に生身の苦労を重ねてきた。
あとは浮かれて楽しく、夢見るように生きればいいではないか。
ケンにはこんな心境は絶対に理解できないだろう。
映画が終わり生あくびしながら、うちのバービーが言った。
映画、もうひとつだったね。
そうそう。
逆のストーリーだったらもっと面白かったはずである。