聞き流す、と一口に言っても簡単なことではない。
耳に入った時点で意味が生まれ、つまりこれは体内にて何か物質が生成されるのだろう、なにがしかの生理的な反応を引き起こす。
だからほんとうの意味で聞き流す、ということができるためには死ぬしかないということになる。
なるほど。
「聞き流す」を言い換えて「そのときは死んでおく」と言った方が実用に迫る言い回しと言えるかもしれない。
この日もいろいろ執拗に語気の強い男言葉が耳に届き始めた。
居丈高な客に責め立てられる店員のようなものであるとその構図を思い浮かべつつ、やはりこういったケースで店員さんは「とりあえず死んでおく」といった心持ちで過ごしているのだろうとその心中を察した。
しかし実際には「生きている」訳であるから、毒のある物質が体内に生じ駆け巡っているに違いなく、その不快に耐える様は、無抵抗でどつき回される殴られ屋みたいなものであろうからさぞかし辛いことだろう。
それにしてもわたしはあれやこれやほんとうに大事にしてもらっている。
どこででも丁寧に扱ってもらえて嫌な思いをすることなど全くない。
特にこの歳になって痛感する。
どこかお店であっても職場でも客先でも友人らにも家族にも優しくして大切にもらえ、ほんとうにありがたいことである。
つまり、わたしはあまりにキャリアが浅く、恭しい店員になるなど土台無理な話なのだった。
だから仕舞いには言い返しそうになる。
なってしかし、耐えに耐える。
つまりこの時点で「聞き流す」など、空中浮揚と同じレベル、絵に描いた餅でしかないのだった。
「三倍返し」と半沢直樹は言ったが、ここではとても三倍では済まされない。
言い返せば、それは巨大なブーメランとなってわたしを襲うだけの話なのであるから、わたしまで加勢せぬよう、わたしはわたしを縛るほかなかった。
そして、ことがそこに至れば、心のなかで矛先を変えるしか手立ては残されていない。
世に製造物責任との言葉があるが、そもそもの責任は製造者にあるのではないか。
なんでわたしばかりこんな目に遭わなければならないのだ、「責任者出てこい」と人生幸朗師匠の姿を思い浮かべるとほんの少し痛みがやわらぐから不思議なものである。
たとえそれが八つ当たりでしかないにしても、罪を憎んで人を憎まず。
幾分かは差し迫ったような心情を脱することができるから有用だろう。
やがて風雨が過ぎ去ったかのようになんとか終わった。
ああ生き永らえた。
がしかし、耳の奥になにか鈍い痛みのようなものが残って思う。
これは確かにカラダに障る。
これまで人類は感覚を常に開いて危機を感知し生き延びてきた。
自在に感覚を遮断するなど夢のまた夢という話なのだろう。