業務を終え、日中に比べ肌寒さを増した明石駅で降り、いつもどおり居酒屋へと寄った。
頼むメニューも定番化している。
このところ時間がゆったり流れていたから、ほんの少し強度があがるとかなり忙しく感じられる。
この日は朝から気が張った。
そんな仕事の時間を経たからこそ、くつろぎの時間がより一層、味わい深いものになる。
もし何もせず、夜になったからと居酒屋へ繰り出してもただ虚しいだけだろう。
隣席の老年男性二人の会話の間がいい。
ほどよく話してほどよく黙って酒を酌み交わし合う。
そんなペースがわたしの呼吸感にもしっくりくる。
やはり会話にだってくつろぎの有無が存在するのだった。
仕事でなら文脈を読みながら思考を鋭敏にし言葉を捻り出さねばならないから神経を使う。
だからくつろぎからはほど遠い。
一方、仕事を離れ気心知れた家族や友人らと言葉を交わす場では無思考の度が強まって、たいていの場合、くつろぎに溢れている。
しかし、と思う。
昨今のコミュニュケーションにはSNS的要素が増してきて、中にはまるでSNSであるかのような会話をし始める者がいる。
いいところだけ、きれいなところだけ見せる会話は作為に満ちて、酸いも甘いも噛み分けた包容力のあるやりとりとは対局にある。
そこにくつろぎ感の灯がともることはないだろう。
見せてなんぼの仲良しごっこを繰り広げる場であればゲームのごとくそれでいいのだろうが、身内やそれに近い関係にそんなゲームを持ち込まれたら、想像するだけで気が滅入る。
かつて家内を当てこすった人物などその典型だろう。
結局、肝心な話は何もできず、だからあり得たはずの関係は枯れ、やがて疎遠になるのもやむを得ない。
一杯飲んで、仕事の疲れもすっかり癒えた。
前回同様、もちろん女房へのみやげも欠かさない。
女房はちょうどいまジムでトレーニングしている最中だろう。
帰ってきて菊水鮓の上ちらしを目にすれば大喜びするに違いなく、夫婦の会話はこのうえなくふんわりとしたものになることだろう。