KORANIKATARU

子らに語る時々日記

饒舌な格差がやがては暗黙の階級差へと転じていく。


シルバーウィークだと言っても変わり映えのしない一日を過ごす。
夜12時に寝て5時に起き始発で事務所入り。
特に差し迫った仕事があるわけではない。

日の出とともにねぐらの街路樹から町へと繰り出す都会の野鳥のようなもの。
生態だとか習性だとか言うべき類の話であろう。

休日だろうが平日だろうが出だし立ち上がりは同じように始まる。
新聞を読み朝食をとり、コーヒー飲みつつラジオ体操するみたいに日記を書いて心身錆びつかぬよう午前中は仕事して過ごす。
仕事をお留守にすればするほど再起動するのが億劫になって後で苦労する。
そう心得ているので電源を落とさない程度の力加減で軽くこなす。

そして、後は自由だ。
なにしろ休日。
野鳥のように町へ出かけてもいいし、本を読んだり映画を見たり何をしても構わない。


この日は、映画「アデル、ブルーは熱い色」を見る。

年若いレズビアンの恋愛を通じフランス社会に空気のように馴染み沁み込んだ階級差が描かれる。
この階級差は内面的なものと不可分であり、一見ビジュアルでは捉えにくい。
韓流ドラマのように一方がお屋敷に住み一方が離れに住むといった大味な分かり易さは全くない。

仕草、振る舞い、言葉づかい、思想、食べ物、食べ方といったディティールのいちいちに階級差がある。
細部まで隈なく階級差のコードが行き渡っているということであり、この乖離の集積が暗黙裡にこちら側とあちら側を明確に分断する。
多く語らずとも実はあからさまに身分社会であるフランスの在り様をこの映画によって知ることができる。

ヒロインの一人、エマは画家を目指し、哲学的素養があり、両親は知的な雰囲気漂わせ娘の意思を尊重する。
一方、アデルは文才はあるものの将来食べていけるよう小学校の教師を目指し、親は朴訥素朴、堅実第一といった考え方だ。

エマとアデルが互いを家に招きあったとき、エマ宅のディナーはオイスターと白ワイン、アデル宅ではスパゲッティ。
この対比を契機に二人の間の埋めようのない「乖離」が様々な場面をもって描き出されていく。

いろいろなことがありながら、普通の顔して義務としての仕事をこなすアデル。
あくまで理想にこだわり妥協せず自らの世界観を絵で追求するエマ。

愛し合っていたはずが、どうあろうとこの恋愛は終わっていかざるをえないものだった。
そもそものはじめから分断をはらんでいた関係なのであり、別れは不可避であったのだ。


日本においては格差がまだ目で見て分かりやすい段階にあるのだろう。

先日久米宏さんがラジオで面白い話をしていた。
連れ合いがタクシーで聞いた話だという。
年配の運転手いわく、このところ数千万円もするような超高級車をやたらと東京の街中で目にするようになった。
昔はこんな高いクルマは走っていなかった。
ここまでこれ見よがしではなかった。

久米さん自身もその移り変わりについて嘆く。
例えば高級住宅街である田園調布においては停まっているクルマは古いクラウンが大半だった。
昔ながらのお金持ちは「これ見よがし」なことはしなかった。
それに比べて最近の金持ちは格差を煽るような「これ見よがし」をためらわない。


「これ見よがし」な格差については、まだ取り繕える分、救いがあるように思える。
ハイソな街角には一定数存在するであろう金持ち風に見せたがる方々は、工夫次第で見かけ上は格差を明るみにせずに済み、水面下で足をバタバタしていられるうちはその気が維持できるので打ちのめされることはない。

ところが、この格差が内面的なものにまで進行してしまえば、もはや万策尽きるも同然。
張子の虎は虎にはなれず、真似しようもない。

格差と言えばまだ同一カテゴリー。
カテゴリーが異なれば、これはもう階級差というしかない。

いまはまだテレビに代表されるように同一の文化性のなか同居する日本人であるが、経済格差の定常化をきっかけとして、細部の不可視な部分にまで乖離が進行していくのではないだろうか。
そして同じ日本語でありながら、違う言語を話しているような分断化された社会となっていく。


我が家など子らについては好きなことをすればいいと思いつつ食っていけるようにと心配している時点で下々だ。
また、祝日なのに平日と同じように過ごし仕事などしている時点で下々。

生きるため一般の民が全力振り絞らなければならなくなっていく世相の一方で、経済的な不安などからはすでに解放され、子らについては自由に羽ばたけばいいとその自主性に委ね、俗世から遠く理想的な在り方を求めていくような、全く異なる日本語を話す階層が今後続々と生まれ始めていくのだろう。

そのように考えつつ、性懲りもなく西九条の大福湯でサウナに入り、近所の中華屋でホイコーロをつまみにして生ビールを飲むのであった。
昨日と全く同じような今日。
私は下々を宿命づけられたようなものである。

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