ぶらり立ち寄った本屋の新刊コーナーにエーリッヒ・フロムの『愛するということ』が陳列されてあったので、そんな古典がなぜと意識の端に引っかかっていた。
翌朝の読売新聞を見て合点がいった。
このほど改訳され新装版が刊行されたとのことだった。
紹介記事のなかの締めの言葉が心に留まった。
『重要なのは愛することであって、愛されることではない。
同調圧力、ヘイトスピート、そしてコロナ禍による人々の分断、そのすべての裏にあるのは愛の欠如だ。
地獄とは、愛なき世界の別名ではなかろうか』
若い頃なら、愛と聞いてもピンとこなかった。
が、子を持って中年にまで至れば、強い決意とともに胸に刻んだその言葉に思い入れのようなものを感じる。
締めの言葉に導かれ、わたしは自身の決意について反芻することになった。
で、電車に乗って草薙龍瞬さんのブログを読んで、これが優しさについての話であったから、更に自身のことも含め様々省みることになった。
昨今、ネットに『自分をよく見せよう』とする発信が溢れている。
承認欲と自己顕示欲と上昇欲が混沌と渦巻き、人々は自身のために価値の争奪を繰り広げているかのようだ。
これでいったい誰が幸せになったのだろう。
世の中は良くなったのだろうか、人は優しくなったのだろうか。
もっと「ひとさま」に向いた活動の方向性があるはずで、それがあってこそ、「人を煽らず、傷つけず、奪わない、思いやりのある世の中」が実現するのではないだろうか。
ざっとまとめればそんな話であり、最後に「やさしい人でありましょう」と結ばれていた。
「自分をよく見せよう」との典型とも言うべきインスタおばさんのことが頭に浮かんだ。
小ウソまで並べて、何が凄いのか、ブランドもののマークなどを写して見せて、おそらくはこれでどうだと悦に入っている。
発信内容を通じ、その内面の人間観が透けて見える。
ブランドのレベルによって人を上下に分け線引きする階級意識が薄気味悪い。
そして行き着くところ、その人間観で自身の首をも締めていくことになるであろうからバカバカしい。
虚飾の顕示にまんまとひれ伏し崇める人が少なからずいてそこは思う壺であろうが、たいていは見透かしてその自家中毒的な呪縛を不憫に思うだけの話だろう。
自分をよく見せようといった胸算用の真反対、つまり世のため人のためと思う世界に属するのが愛であり優しさ。
電車を降りる頃、そのような等式が清々しいほどくっきりと見えた。