週末金曜、夜は実家。
ビールを買いそびれたので、冷蔵庫にあった発泡酒を両親のコップに注いだ。
母の手料理を食べ、祖父の命日を両親とわたしの3人で静かに過ごした。
昨年までは親戚も顔を出した。
が、コロナもあってこれでひとつの区切り。
これまでのやり方を変えるのにちょうどいい機会と言えた。
大家族は時代の流れとともに最適規模へと縮小していき、うちも例外ではないのだった。
全く異なる日常を過ごす者らが集うと、誰が悪いという訳ではなく不協和音が生じる。
ああ賑やかだとおめでたく喜べるような事態ではなく、そんな場に身を置くだけで受け入れ側は疲弊する。
ものには限度というものがあり、親密に付き合える人の数にも種類にも上限がある。
つまり、人との付き合いに割けるエネルギー総量は一定ということである。
一緒に暮らす家族がいて、その他、日常に頻度高く登場するのは友人であり仕事の関係者。
日頃、連絡を取る機会がなく、かつ、趣味にせよ仕事にせよ思い出話にせよ何も共通の因子がないと関係は維持し難い。
取っ掛かりなく意義もなく振り分けるエネルギーも残存していなければ、どうしたった疎遠になっていく。
そうなると何か理由を見つけて会ったところで空々しく乖離感が強まる一方となる。
であれば、自然に任せる方が、関係の寿命は長持ちするだろう。
そんなことを考えつつ、わたしは両親と静かに過ごした。
肩の荷が降り、両親の表情は至って穏やか。
もっと早くにわたしが率先し、こうした形を整えておくべきであった。
発泡酒から日本酒に移ってまもなく、「そうだ、家の風呂を改装しよう」とのアイデアが頭に浮かんだ。
冬を前に信じがたいほどの蒸し暑さに見舞われた大阪であったが、気圧配置は冬型になり週末には寒さが舞い戻る。
近所の銭湯やジムのサウナに両親がいつまで通えるか分からない。
暖かに過ごせる風呂を設えることが、いまいちばん大事なことだろう。
そんな話を思いついたのも、余計なノイズがないからこそ。
おそらくは日本酒好きで風呂好きの祖父からのメッセージ。
静かに過ごせば、向こうからの声もきちんと届くということである。