KORANIKATARU

子らに語る時々日記

あの頃、わたしたちは若かった

いつもより早めの帰宅となった。

家内には八尾の用事を頼んであった。

戻りはまだ先になるとのことだった。

 

ではサウナにでも入ろう。

そう思い立って熊野の郷に向けクルマを走らせた。

 

ハンドルを握って見慣れた街路を南に進む。

慣れ親しんだ地元であるのに、不思議なことに懐かしいといった思いが込み上がった。

 

一体何が懐かしいのだろう。

 

少し考え、答えが分かった。

懐かしいのは場所ではなく時間だった。

 

その昔、仕事を終えてよくプールに通った。

時は十年以上も前にさかのぼる。

当時、わたしは水泳中毒で、かばんに水泳セットを忍ばせ仕事の合間に泳ぐだけでなく、仕事後も何がしたいといって迷うことなくプールで泳いでいた。

 

当時と今をつないでみるとよく分かる。

わたしの活動量は目に見えて減衰の一途をたどっている。

 

最近ではコロナ禍もあってジム通いを中断しそのままとなっており、仕事後に出かけるとしてもせいぜいサウナに行く程度となった。

飲み屋に直行するよりマシとは言え、まあ楽な方向に振れているのは間違いない。

 

いま、仕事後に泳ぐなど想像するだけで気が滅入る。

よくもあんな日々を嬉々と過ごせたものである。

 

つまり、この距離感に「懐かしい」との思いが入り込んだのだった。

だから、言い換えればわたしが懐かしんだのは昔日の「若さ」と言えるのかもしれなかった。

 

同じ時刻、同じ街路を走って、当の本人はいつのまにやら年老いた。

 

これがひとつの兆候で、この先随所で「若さ」を懐かしむということになるのだろう。

まだ若いとの気持ちをそのままに、カラダは正直。

わたしは老いの領域に徐々に招き入れられているのだった。

そう思えばいささか寂寥を覚えなくもないが、幸いなことに一人ではない。

 

あの頃、わたしたちは若かった。

そう一緒に話し合う相手がいるだけマシな話である。

サウナを終えて帰宅する頃、家内も家に戻っていることだろう。

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2021年12月14日着 高知四万十からクエとカツオのたたき