前日同様、業務を終えてまっすぐジムへと向かった。
いつものルーティンどおりまずは泳いでふと思った。
軽く泳ぐといった気楽な感じで水につかるが、実際は、強く大きく腕を回し、足で激しく水を打ち、それを休みなく40分間ぶっとおしで続けるのであるから、動作としてかなりハードな部類に入るだろう。
そして筋トレに移ってここでも自身を客観的に眺めてみた。
泳ぎ終え、主たる任務は終わったようなものであるから筋トレは気分としてはおまけの部類に属する。
しかし、実際の動作を一つ一つつぶさに見れば、とてもおまけの一言で片付くようなものではない。
負荷に抗して顔面を歪め、それをもはや限界というところまで繰り返す。
伊達や酔狂でこなせるようなものではなく、相当難儀な苦役と見て取れる。
そんな苦役をまるで日々の楽しみであるかのように連日こなすのであるから、なんというのだろう、「慣れ」というのは恐ろしい。
ジムを後にし、前夜同様、飲み屋へと場を移した。
ビールを飲みつつ思い巡らせるのは、「慣れ」についてであった。
苦役を当たり前のようにこなして、その喜びにひたる。
ジムでそんな自分を発見し、これは何もジムに限らず、仕事においても同じことだと気がついた。
早朝から起き出し、その日の課題に真っ向から取り組む。
難なくこなしているようにみえ、どの一要素をとっても長い修練の賜物で、そんな積み重ねがあったからこそ、実は困難な苦役を毎日欠かさずこなすことができるようになったのだった。
そして、その「慣れ」が質だけでなく、量をも安定的なものにする。
走ったり泳いだりする際、絶対にノルマ未満で投げ出すようなことはしない。
そんなことをすれば自分で自分が許せない。
そうなるのがわかるから、自分の決めた量を必ずこなす。
仕事でも同じ。
同様の精神が発動し、一定以上の生産量が死守される。
思えばほんとうに真面目になったものである。
そんな心がけが十代の頃に備わっていれば、もっとわたしはマシな人間になれていたことだろう。
しかし、過去の怠惰を悔いたところで二次災害みたいなものであっていいことなど何一つない。
見据えるは未来。
この「慣れ」は今後より一層洗練されて強靭なものへと発展していくに違いないから、そこにこそ着目すべきだろう。
運動することで自身の本質が垣間見え、それでとてもビールがおいしく感じられた。
カラダに先導されて、気持ちも前を向く。
なるほどこれが正しい順番なのだろう。
さあ、明日も頑張ろう。
このようにしてわたしはもっともっと頑張ることに慣れてゆく。