KORANIKATARU

子らに語る時々日記

商売人であったためしがない

明け方4時の2号線を進む。
ラジオでは笹を500円値切った、いや値切れなかったなどリスナー達から寄せられた情報が話題になっている。
今日は商売繁盛で笹持ってこい、えべっさんの残り福の日だ。

私にとって十日戎は、過ぎ去った正月の華やぎが忘れ物取りに来るように舞い戻り、しょぼくれかかった心を癒し救済してくれるようなお祭りであり、三が日の残り火を味わい反芻できる恩恵深い行事である。
毎年笹を買いに出かけてきた。
一時期など堀川、今宮、そして発祥の地である本場西宮を連日はしごするほどの神頼みぶりであった。
しかし3つも回るなどまともな現代人に続けられるはずもなく、結局は西宮一つ通うだけとなっていたが、一昨年、昨年と西宮にごった返す人の数が尋常ではなくなり危難回避のため参拝を自粛することにした。

今年は今年で無理である。
神様も忙しいだろうし、私も忙しい。
お日柄悪い折りは外すのが礼に適う。
人混みの構成員になる時間があるなら一休みする方が世のため人のためだ。

明け方の2号線は真実の宝庫であるようで、しょっちゅう新しい発見が訪れる。
運転しつつ明確に気付いた。
私は商売人ではない。

笹を値切るなんて、そんな発想すらない。
その昔、祖母が何でも値切るので恥ずかしくて買い物の際はいつも気詰まりだったことを思い出す。
そうそう、十日戎に欠かさず通って来たが、そもそも私は商売人ではないのだ。
私にとって、笹なんて宝の持ち腐れ、無用の長物なのだった。

仕入れに分厚い利益を乗せて売る。
それが商売人だ。
利益はなんぼや、と思考の中心に算盤が来るような目敏い人こそ商売人であり、こちらが譲歩すれば相手が儲かる、こちらの条件をのませればこっちが儲かる、といった息呑む綱引きみたいな算盤合戦を際限なく繰り広げられる気迫がなければ話にならない。
私のように相手が喜んでくれるなら仕入れに利益乗せず売る、それどころか仕入れより安く売る、さらにはただで上げる、そんな気質だと商売の切った貼ったが行われる主戦場に放り込まれれば、からきしの体たらく、たちまち干上がり身ぐるみ剥がされるのがオチである。

もちろん、仕事した場合はやむにやまれず請求書を送るが、もし請求せずに暮らせるならこんな素晴らしいことはないといつも思っている。
商売の才覚が全くなくても何とか糊口を凌げる仕事でいまのところ命拾いしているようなものだ。
この先も安泰かと言うと、そんなことは皆目見当もつかないことであり、不可視であるということだけが明確で何とも心もとない立場である。

クルマを駐車場に停め、コンビニでスタミナドリンクを買う。
読む時間もないので新聞には手を伸ばさない。
事務所につき支度して、すぐに仕事に着手する。

備忘録のボイスメモを開く。
心当たりのないファイルを見つける。
再生すると長男の声だった。
全く予期しない場面で聞こえてきた長男の声にしばし聴き入る。

8月のある朝、彼は無断で私のiPhoneに声を録音したのだ。
今の今まで私はそのファイルに気づかなかった。
ボイスメモを備忘録として使ったのでたまたま開いただけであり、偶然その声に行き当たった。

おはよう、以外無内容な話が続く。
が、声というものが持つそこはかとない温かみをしみじみと感じる。
「兄ちゃん、負けてえな」と境内の露店で食い下がる優しかった祖母の声が蘇る。
何であのとき一緒に負けてえなと祖母に加勢しなかったのだ。
恥ずかしがって悪かったね、ばあちゃん。
でも、今もって負けてえなと言えないアカンタレなのだよ。

去年のことか、チャリンコで塾へ向かう長男と家内が電話で話し、話が終わった後も電話を切っておらず、胸からつり下げた長男の携帯を通じて何語か分からん自己流の歌を熱唱する歌声が聞こえてきたという。

零度近くまで冷え込む真っ暗な明け方、何やら元気が出てくる。
スタミナドリンクなど不要だ。
耳にしたことのないその音楽を入場曲にしノリノリで今日も無事仕事のリングに入ってゆくことができた。