1
文化の日の朝、駅で買った毎日新聞をめくる。
83歳の女性の話に目が留まる。
その女性は56歳になる息子に先立たれた。
息子は星が好きだった。
息子が入院していた緩和病棟の屋上にも偶然小さな天文台があった。
だから息子は星になったのだと思っている。
大勢の友人に見送られた最期だった。
人と人との細い糸はいつまでも繋がっている。
その友人らから今も便りが届く。
細く長い糸は永遠に続く。
子に先立たれることがこれほど悲しく辛いことだとは思わなかった。
ときおり目を凝らし星を眺める。
そのような話を読みつつその身になって考えてみる。
胸がぎゅうときつく締め付けられる。
こんな切ないことはない。
もうすぐ向こうで会える、そう思えば少し心の痛みは和らぐだろうか。
それでも私にはとても耐えられそうにない。
2
水曜必着の郵便書類を休日無人の事務所で仕上げ収集時間前に投函し終える。
秋好天の下町をぶらつきながら、スクールフェアの見学を終えた家内の迎えを待つ。
近くまで来たと報せがあって待ち合わせしクルマの助手席に乗る。
帰途につき、車中、その日のスクールフェアの話を運転する家内から聞く。
もっぱらママさんらとのコミュニケーションの場であったようだ。
いつか子は巣立つ。
母親同士、長く長く仲良くしようね。
要約すればそのような話である。
その他、子らが取り組む英語や数学の内容がどれほどハイレベルなものなのかも分かったようだった。
子らはこの学び舎で目一杯に温かくかつ厳しく鍛え上げられている。
3
スクールフェアの日、学校の教会で毎年追悼ミサが行われていることはあまり知られていない。
カトリックでは11月1日が諸聖人の日、その翌日が死者の日とされる。
星光の同窓生、籍があった方やゆかりあった方々のために祈りが捧げられる。
33期においても物故者リストに幾名かは名を連ねているはずである。
その顔が浮かぶ。
彼らのことを忘れることはない。
4
長男は遠く異国の地にあり二男は泊りで出かけた。
家内との夕飯は外で済ませようと思って三宮のモッチを予約していたが家内が作るというのでキャンセルする。
西宮北口のアクタに寄る。
やまがき畜産で私たちの夕飯と子らの牛肉をたんまり買う。
その分量をみて我が家ではライオンとトラを飼育しているのだと改めて知る。
家内が手際よく用意し、赤のワインで乾杯し二人ですき焼き鍋を囲む。
やまがきの肉はかなりいける。
このレベルを外で味わうのだとしたら一体いくらかかるか知れたものではない。
5
日記にすることでこの一日は単に過ぎ去るのではなく幾分かは残ることになる。
そう思ってこそ日記をつける。
いつか子らの目に触れ、何か思ってもらえればそれで十分。
120%の確率で私が先立つ。
それ以外のことはあり得ないし受け入れられない。
日記が残ると思えば、思い残すことは極小で、いつか訪れるのかもしれない巨大な寂しさにも耐えられるような気がする。