上野へ行こうと女房が言ったのは、記憶のなかにある昨年の桜に誘われてのことだろう。
昨年もちょうど今頃、夫婦で上京し桜見物に明け暮れた。
前日さして歩いていなかったが疲れがあるとのことだったので、上野にある足つぼマッサの店を探した。
本場中国っぽい施術を受けられそうな店があったので予約した。
上野に着いてまずはお茶でもしようと店を探すと老舗名店の名が挙がった。
喫茶古城との古き良き語感にふさわしい路地裏に店はあった。
狭く暗い階段を地下へと降り、期待に胸を膨らませ古びた佇まいの店内へと入ったと同時、タバコの煙に押し返された。
が、すぐには止まれず、慣性の法則よろしく席に座ったところで、「けむり、むりむり」と水を運んできてくれたタトゥー女子に大阪弁で伝えて店を出た。
関西の名店である上島珈琲が駅前にあって、さっき通り過ぎたばかりだった。
最初からそこにすればよかったと引き返し、そこでマッサージ屋の開店を待った。
11時ちょうど、歩いて数分の場所にあるマッサージ屋に向かった。
思ったとおり。
施術者は中国の方で、その風貌と雰囲気から見るからに本場仕込みと窺えた。
中国から取り寄せたという高級施術台に夫婦で並んで座り、リクライニングを倒して寝そべった。
ここから一時間。
「痛い」と「快い」がゆるやかに伸びて交差する地点、その名も至極へといざなわれた。
いったいなんでこんなに気持ちがいいのだろう。
足裏を揉まれつつ、意識がすとんと深くに沈んで思索が巡った。
反射区がどうのという理屈では片付けられない何かが、そこにはあった。
カラダが先か、意識が先か。
そもそも、このカラダというやつは一体なんなのだ。
そしてそれを不思議がっているこの意識とやらはいったい何なのだ。
足部の刺激を通じ、普段は覗き込まない床下の扉が開いて、そこにあるのかもしれない、存在のタネがチラと垣間見えたような気がした。
だから次々と生じる疑問は螺旋状に原因の原因へと突き進み、更に根源的なものになっていったのだった。
どうやら足の裏には魂の深奥へとつながる入口があって、達人が押せばそこが開くようにできている。
そうと気づいてすぐ、さっき降りたばかりの老舗喫茶店へと続く細く狭い階段の様子が思い浮かんだ。
で、わたしは直感したのだった。
あそこにあったのは煙だけで、わたしはそこでむせただけだった。
舞台裏は案外、どこであれそういったものに違いない。
深部へとつながる階段があったとしても、何も降りる必要はない。
そっと上から、その入り口を眺めるだけで十分だろう。
リフレッシュされた心身を携えて、このあとわたしたちは風が吹き抜け桜咲く地上の光の世界へと戻っていく。
それがいちばん。
足つぼを揉んで押されて一時間。
わたしたちはより正しい場所へと導かれたのだった。

