KORANIKATARU

子らに語る時々日記

想像の中の歓喜と日常の中の喜び

昼に池田、夕方に高槻。

この日は2件まわるだけなので気楽に構えていた。

 

いつもそう。

まだ先、という場合には余裕を感じる。

 

が、実際に業務が目前に近づくとそれなりの緊張感が身に迫る。

やはりわたしは真面目で、仕事に対し真剣なのだった。

 

そして今回も例外ではなく、無事に業務を終えることができた。

安堵しつつ、そのビフォーアフターを反芻した。

 

仕事へと赴く際、終わった後の気分を思い浮かべ、その瞬間に憧憬すら覚えた。

が、実際に終わるとなんともない。

あっけないほど静かな感情のままであった。

 

その昔、学校の定期試験に苦しんだ経験を思い出した。

試験が始まったばかりの頃は「あと何日」と指折り数え、終了の日を待ち焦がれる。

しかし、いざ終わってみると、思ったほどの高揚はない。

 

思うに、歓喜とは「まだ終わっていない今」にこそ宿っているのかもしれない。
その未来を思い描く時点で、喜びの大部分はすでに味わい尽くされているのだろう。

だからこそ、「終わった瞬間」は、ただただ静かなものとなる。

 

駅へと向かっていると家内からメッセージが届いた。

ちょうど事務所の手伝いを終え、これから家に帰るとのことだった。

 

ここで日常が流れ込んできて、自分の居場所の輪郭がありありと浮かび上がった。

こうして巡る日々のなかに、すでに充分な喜びが与えられている。


派手な感動や劇的な出来事があろうがなかろうが、このささやかで確かな日常こそが自分にとっての幸福なのだった。

2025年6月26日朝 特製チヂミとエゴマたっぷりの野菜冷麺

2205年6月26日昼 阪急池田 蕎麦見世のあみ

2025年6月26日午後 韓国料理教室の風景

2025年6月26日夜 手作り特製ソーセージと京都ミスター・ギョーザ