KORANIKATARU

子らに語る時々日記

臨終の間際、我々は誰かの名を呼ぶ。


2014年兵庫県ジュニアラグビー大会決勝の日、端役の姿を目に納めようと神戸製鋼灘浜グランドに向かった。
が、連絡の行き違いがあったようで、うちの長男一人だけがチームに合流していない。

グランドの外に立ち様子うかがっていると、知った顔混じる一団がグランドに向かって歩いてくる。
兵庫最強、いやそれどころではないおそらく日本最強だろう伊丹ラグビースクールの選手たちだ。

昨年は芦屋と伊丹の二強状態であったという。
兵庫県大会で雌雄を決し、さらに関西地区大会でも決勝でまみえ、ともに全国中学生ラグビー大会に出場を果たした。

2013年は芦屋が全国優勝を果たしたが、今年は伊丹で決まりだろう。
2014年、兵庫勢力図は伊丹一強の色に染まっている。

選手の一人と目が合う。
小学生の頃とは段違い、男っぷりを上げている。
子供たちの成長ほど胸打つものはない。

全く危なげなく、他を寄せ付けず彼らは勝ち進んでいる。
ミサイルみたいなバックス群はじめ、選手レベルはどのポジションも綺羅星級だ。

将来、テレビ画面の向こう、日の丸背負って戦う彼らの姿が目に浮かぶ。
ラグビー通じて知りあえば、もはや他人とは言えない。
怪我などなく、ぐんぐん成長していってくれることを願うばかりだ。


丁度いまの中学生が生まれる頃、大店法が改正され、あちらこちら大型ショッピングセンターが姿を現し始めた。
日常当たり前に利用している「ららぽーと甲子園」や「西宮ガーデンズ」といった便利で賑やかな施設は君たち同様ごく最近生まれたばかりのものなのだ。

この動きは日本の産業構造が大きく変動していく流れと軌を一つにしている。
製造業において工場の統廃合や海外移転が進み、役割終えた「日陰の跡地」が再開発され、人が集う「陽」の場へと変貌していった。

しかし一見、街が息吹き返し発展していくように見えるこれら動きは決して一義的に良きこととして評価できるとは限らないだろう。

製造業からサービス業へ雇用主が移り変わり、所得がじわじわと下がっていく。

女性がバストアップするみたいに、光を寄せて集めて、その分、周囲の陰は深くなっていく。
それら「陽」の場の反作用、光に付き纏う影、山高ければ谷深し。
周辺の小売業は木っ端微塵に粉砕されたようなものである。

いつか新しい産業が付加価値の高い仕事を数々生み出すに違いないという希望的観測は常に唱えられるが、その兆しは一向に現れない。

もはや埋めようがない空洞に、なけなしをかき集めて、ますます貧する。
財布の中身は減っていくのに、買物の場だけでが集積化されゴージャスとなっていく。
堂々巡りの矛盾のなかを迷走していた時代、と後世振り返られることになるのではないだろうか。

それにしても、大型ショッピングセンターはいつ行っても人で溢れ活気漂わせるが、一体どれだけの人がそこでの消費を謳歌できるのだろう。
ますます格差が広がり、お金持ちにとっては笑い止まらないほど楽しいけれど、そうでない場合には、「景気いい気分のお裾分け」に与っているだけ、というのが真実なのではないだろうか。

そうこうしているうちに、最初はもの珍しく重宝した大型ショッピングセンターも過剰感さえ漂うほどに増えすぎた。
幾つかは、元の木阿弥。
日陰の跡地へと舞い戻っていくのかもしれない。


医師の友人に聞いたことがある。
臨終の際、ご主人が奥さんを前にして、他の女性の名を連呼する。

懐かしんでいるのか詫びているのか分からない。
しかし、ご主人が静かに呼びかける名は奥さんの名ではなくその場にいないどこかの誰か。

これ以上に気詰まりな場面はなかったと友人は語るが、その話を聞き、誰であれ最後の瞬間、我々は誰かのことを思うのだと、事の真実を知らされた思いがした。

生き終えた最後、我々の心には人の面影が浮かぶのだ。

死に臨んで、フェラリーだの、ざる蕎麦だの、モノや食物に気持ちが向くなどといったことはない。
あるいは、死に際し、お金を数えたり、便利や快適を有難かったりすることもない。
心を巡るのは人だけだ。

そのような瞬間を想像してみる。
家族、友人、、、溢れだすように色々な顔が浮かんでくる。

多く顔が浮かび、それらに見守られるような風にいければ、それが最上なのだろう。
一人しか浮かばないとなれば、咎でも感じているのか、よほど何か無念な思いが残るのか、どの道それで人生終わりだとしてもそれはそれで寂しいような気がしないでもない。

和気あいあいとほがらかくつろいだ顔がいくつも浮かぶ人生を過ごしたいものである。


衆目の予想通り伊丹が兵庫県中学生大会を制した。

その試合を見届け、家内と神戸長田の焼肉牛車へ向かう。
伊丹チームのメンバーについて道中語る。

知った顔が何人も縦横無尽にグランドを駆け、小学生当時、県大会の決勝で負傷し欠場した選手も一回りも二回りも大きくなって元気ハツラツ走り回っていた。
私同様、家内も嬉しかったようだ。

鍛え上げられた子供たちが、そこかしこでエネルギーをほとばしらせている。
凄い奴らは引きも切らない。
迷走する大人の杞憂など、その熱気ではじき飛ぶ。

この先、どんな凄い人物が若者から現れるのか、楽しみというものだ。
悲観論の描く通り何もかもが先細っていくばかりではないはずだ。

新緑強く香る初夏の日曜日、強く頼もしい手応えのようなものを感じることができ、夫婦ともども牛車の焼肉を心ゆくまで堪能できた。