KORANIKATARU

子らに語る時々日記

シャワーを浴びて人生の真実を悟った

仕事後みずき湯に立ち寄り、湯上がりに見た事もないような大ぶりで超豪勢なリクライニングソファで寝そべり西原理恵子の本を読みつつ週末夕刻のひとときを過ごした。

自分がオンナであったらこの人の言葉に強く励まされ力づけられる人生であったろうと想像しつつ、「女って、ダイヤモンドをくれる男より一緒にリヤカーひいてくれる男が欲しいんだと思うんですよ。一緒に人生の苦労をわけあっていける人に、そばにいてほしい。それさえあれば、もう、幸せですよ」といった言葉に男なのに我を忘れて強く共感し、「贅沢はできひんかも知れんけど、家族がみんな、笑っててお互いを思いやってね」との言葉をまるで女性になったかのように深く味わい何度もなぞるのであった。

長時間運転の疲労もすっかり癒えた。
空腹になったところで帰宅する。
長男が先に帰っていて、夕飯の支度を待ちながらあれこれと話す。

この週末もゾクゾクと学校の友人らが遊びに来るようだ。
そのうちの一人のお母さんは私の友人と同級生だという。

そんな中、別の中学に進んだという知人の噂も耳にする。
「おれは下のクラスの奴とは話さない」とかつて長男が塾で話しかけたときに邪険にあしらったA君は、意中の学校はもとよりその他どこもかしこも首尾よくいかず、思ってもない残念な結果に終わったということだった。

これまた同様に不本意な結果であったのだろうかB君は、長男の同級生をつかまえて、「あいつはカスや、あいつの合格はまぐれや」と、こき下ろしていたという。

二人ともうちの愚息などより遥かに優秀でやんごとない天子みたいなものであるから踏みつけにされても下々は顔も上げることはできないけれど、
「おれは下のクラスの奴とは喋らん」や「あいつはカスや」など、そんなこと言われたら肩ががっくし落ちるような、一日の疲れがどっとのしかかってくるような、とても残念な響き持つ言葉である。

若かりしかつての私なら、いてもたってもいられず鼻息荒く怒りをあらわとしたかもしれないが、うちの子らがそのようなことについて泰然としているので私も見方が変わってきた。
老いては子に教えられ、である。

誰かがああ言った、こう言ったという程度のことで生ずる感情的な怒りというのは、人間一般への理解を欠いた未熟な感性の発露でしかないようだ。
であれば、酷い言葉も回避しようのない人間の性の表れ、ありのままそんなものなのであり、マッチの火を吹き消すようにフッーと一吐き、怒り以前の段階でスルーするのが人としての作法となる。

何を今更、人間という種族には、そのような低劣卑劣で傲岸な悪の種子がそもそもから全員に混在し備わっており、子供なら尚更、親がちょっと目を離せば、黒々とした花を見事開花させ一人こっそりとそれを撫でさするのである。

誰彼構わず標的にし心中で毒づくだけでなく、放置すれば他人の不幸を手を叩いて腹を抱えて大喜びするようないびつなエゴが大豊作たわわになる。

腹を立てても仕方がない。
ただただ残念なことである。
うちの子らが、個別の怒りを生じさせるのでは全くなく、下手すれば我が身にだって巣くいかねないような症状であると、悪の種子抱える人間一般の悲しみとして捉え、静か眺めて受け流す様子であるのが救いであった。

以前にも書いたが、勉強自体が悪であるわけはなく、受験勉強自体も、培った力がその後の環境でまっすぐ伸びるのか根絶やしになるのか保証はないにしても、将来の知的のびしろを涵養する上でとても効果的であることは確かなことであろう。

もちろん、試験内容が粗悪な「問い」で満たされれば、勉強の本来的な意義に水を差す結果になることもあるだろうし、大人の世界では何の役にも立たない偏差値至上主義で勝った負けたと言う阿呆らしさを客観化させないと人格形成において負の要素を遺しかねない。

しかし、それらは大人側の理念や訓育の問題であり、勉強自体の功罪が云々されることではない。

つまり、受験がらみで、傲岸な態度が生まれたり悪の恨み節が咲くのだとしたら、親と塾の責任と言える話だろう。
過度の結果主義が子に与えるダメージなど考えもつかないかもしれない。

確定した結果が意に沿わないものであっても、そんなもの取るに足りないことであり、万事塞翁が馬であって、生涯通じて襲来する黒星群はこんな程度であるわけがなく、そうであっても悠然と持ち堪えはてさて黒を白にひっくり返すオセロゲームを続けるだけのことであると教えられず、不本意感に宙づりのまま捨て置かれたら、これは苦しいことであろう。

どうってことないのだと手当されない不全感がその後屈折し、目を覆いたくなるほど恥ずかしい排外主義をあからさまにするヘイトスピーカーを生んだり、妙ちきりんな性的嗜癖に耽溺したり、新興宗教に上昇志向の活路を見出す妄執者を生む、そういった帰結まで懸念するのは考え過ぎだろうか。

忘れもしない。
あるとき、夜の補習が終わる頃、子を塾に迎えに行ったことがあった。
迎えに来た親は、台帳にその旨の印をつけなければならない。

台帳は、灘用と灘以外用の2冊に分かれ、それぞれの台帳の前に親が二列になって並び、書き込む。
ヨーロッパの入国審査でEUとEU以外に分かれているようなものだなというのが最初の印象であったが、親までクラス分けされているかのような疑心を後になって感じたと言えば、過敏すぎるだろうか。

そして、親はどこまで気付くかどうか、人間のやることである、塾の方針によって、塾が注力する、眼中はそこだけというターゲット校に向けた層と塾のケアが手薄になる層が必ず生まれ、手薄となった層が、注力されてきた他の塾の生徒と競って優位に立つことはできない。
親はすべてを塾に預けてたんまり学費だけ払い、塾の教師はクタクタで、ガイドもない子らは確率論の世界に晒される。

胡麻豆腐、野菜スープ、魚の煮付けなど健康に配慮された夕飯を食べつつ、たまに子の肉を盗み食いしつつ、今度は子らを連れてみずきの湯へ行こうと思い巡らせる。

実に心地よかった。
サウナでは、オレンジのアロマオイルが熱した石にぶちまけられ、かぐわしく熱い蒸気が音立てて充満する。

その蒸気を、体育会風の眉目秀麗若手従業員が大うちわでお客一人一人にあおいでくれる。
暑い暑いとこらえきれず、水風呂につかり、ナノ水の冷たいシャワーで熱を冷ます、このときの天にも昇るアホ面こそが人生の醍醐味である。

この醍醐味を子らにも追体験させてあげねばならない。

ますます単純なことのように思える。

アホ面さらして明るく堂々、邪念招き寄せぬよう心正して、少しはましな人間になれるようちょっとずつ前に進んでいけばいいだけのことなのであろう。

付け加えれば、33期有志による過去を振り返るシリーズで、もっとデートしておけばとか、もっと遊べば良かったという回答は皆無なのに、誰もが異口同音に述べるもっと勉強しておけばよかったという言を厳粛に受け止め、チャンスあるうちに勤勉に励むことであろう。
そして、家族でにこやか平穏に過ごせれば、これにまさる幸福はない。
なんとシンプルなことだろう。