KORANIKATARU

子らに語る時々日記

やがて来る大奮闘の日々に向けて

1
週末旅行に出かけていた家族が戻って来た。
長男はつり三昧だったという。
夜明けとともに海に入り、釣りやすいように設えある釣り場は拒否し、視認してここだという場所でただ一人腰まで浸かって釣り糸を垂らす。

何時間もそのように、太陽をも跳ね返すほどの執念の炎をたぎらせ今か今かと獲物の手応えを待ち続ける。

風景の一部となって誰の注意もひかなくなるほど時間が経過する。
5〜6時間は経ったときだっただろうか、突如歓喜の声があがる。

ガシラが釣れた。
家族のもとに走りより全身わなわな震わせながら釣果を見せる。

丸二日、大中小のガシラ3匹の凱旋となった。

原始の頃合いであれば間違いなく狩猟名人として一目置かれたことだろう。
21世紀、彼のベクトルがどこへ向かうのか、さあ、これは楽しみだ。

二男が私に声をかけてくれた。
「パパ、留守番ありがとう」

君、旅行させてくれてありがとう、と言うべきであろう。


いろいろな町の病院を経て、最後には石本先生のところに回ってくる。
最後の切り札として手術に臨む。
執刀医としてのプレッシャーは相当なものだ。
それで白髪が増えたと笑う。
似合っている、いい男ではないか。

日曜夕刻、堂島川を渡る風に吹かれて5人でビールを飲む。
学園前トリオと会うのは久方ぶりだ。

10代の頃の気安さは不変である。
しかしそこに職業的な敬意を感じざるを得ないほどに枝葉ますます生い茂る八面六臂大活躍の面々である。

学園前と言えば、大阪下町の民であった私からすれば天上の高級住宅街であった。
揃いも揃ってよくもまあ偉くなったものである。

姜先生とトイレ探して連れションする。
男子にとって連れションこそが最大のコミュニケーションとなる。
別に何を話す訳でもないけれど。

ヘグリというのは住む地名にちなんだ渾名であって本当の名前は中澤だと後年知ったが、中澤先生、と呼びかけるよりも学園前の権威を指して「なあヘグ」と呼んで許されるのは同じ学校で育ったよしみだろう。


大学生っぽい少年達はにきび面でどぎまぎしている風であったが、フーターズガールがそこらを行き交っても、我ら男子5人は別段視線を向けることもない。
ちょっと雨だねとか言いながら名物のチキンウィングにかぶりついてビールで流し込む。

快癒祝いのお客様がいらっしゃいますとアナウンスされ、ケーキが運ばれる。
隣席に、白いワンピースで麦わら帽子かぶった美人の女性がいて、彼女を囲むようにして、ご主人や友人らが立ち上がり一斉に拍手する。
どのような病気だったのか知る由もないが、通りすがりであれこのような幸福な場面に触れるのはいいものだ。
何とも清々しい。


芦屋の阿部先生と電車で帰る。
仕事の話となる。

我々33期がともに過ごしたのは10代であり、まだまだ青いちびっ子の頃であった。
いま40代。

気の遠くなるような、負荷たっぷりの道行きをくぐり抜け、各自各人、半端ではない修羅場を走り抜け持ちこたえてきた。
特に阿部先生が対峙して来た産婦人科の現場は、よりいっそうの過酷さである。

共感というには重みが違いすぎる日常を経て来た阿部先生が持つ職業観に畏敬の念を覚える。
彼はいまもなお、タフでハードな現場で自らを磨き研鑽することを怠らない。

我々は10代の頃のままではないのであった。

電車が甲子園口に着く。
今度、鷲尾先生も誘って美味いもの食べに行こうと約束し手を振り電車を降りた。


ふと思いついて、家内に話してみる。

多分私たちは、子らがいつか過酷なほどの大奮闘のプロセスに嬉々として入っていくことを無意識裏に知っているのだろう。
それがあると知っているから、できるだけ力が備わるようそれを第一にと考えるから、料理に凝っていいものを食べさせ、勉強するよう導き、本を買い、こてんぱんに疲れる程にスポーツさせ、と良かれと思う事に心を砕いてきたのだろう。

いつか、一人、大海原へ漕ぎ出してゆく。

アドバイスはできるし、声援もかけられるが、難敵と戦い、漕ぎ続け、そこを渡って行くのは他ならぬ彼らである。

私たちは自分自身の大海原を何とか渡りきることができるだろう。
次は子らの番となる。

自分のことなどどうでもいい、という境地はこのようなことなのだろう。