KORANIKATARU

子らに語る時々日記

どれだけ辛くても「あんなふうになりたい」と誰もがそう思った。


二男がリビングでくつろいでいる。
録り溜めたHEROを見ている。
数日来の再会だ。
おみやげは戸隠の蕎麦。

家内と長男は友人家族と磯釣りに出かけて留守。
二男に食べたいものを聞くと、なんとインスタントラーメンだという。
テレビのCMでみてその気になったようだった。

我が家ではカップ麺やレトルトなどを食べることがない。
あんまりない、ではなく、全くない。
あったとしてもせいぜい何年かに一度といった程度である。

たまにはいいだろうと、二男の注文を聞いてコンビニに向かった。


たまにはジャンク。
カップ麺すするのも勉強だ。
家内も叱るまい。

湯を注ぎ数分待って二男がカップ麺をすする。
おいしい?と聞くと、少し考えて頷く。

カップ麺にはおいしいと感じる化学調味料が添加されている。
後味はともかく、そのときおいしいと感じるのが一次的な反応としては正常だ。

信州についていろいろ聞きたいが、二男から話し出すのを待つことにする。
私も心得ている。
あれこれ質問攻めされることほど面倒なことはない。

ふと、二男が言った。
信州は、朝、寒かった。

続きの言葉を待つ。
しばし待つ。

しかし話はそこで終わったようであった。
信州については、それだけ、であった。


HEROについては先日長男と同じ内容を見たばかりであった。
HEROを見続ける二男をそのままに、私は別室で映画を観る。

今夜のロードショーは、「さらば、わが愛/覇王別姫(はおうべっき)」

素晴らしい映画であった。
三時間にも及ぶ大作であったが、長さを感じなかった。

あまりに美しく、壮大で、いくつもの人生が凝縮され、濃厚であった。
しばらく余韻に浸って、様々な映像を追想するような時間を過ごす。
これでこそ映画である。

映画の出だし、女郎の母が子を京劇の修練所に託す。
この子が映画の主人公だ。
冒頭の衝撃的なシーンが、主人公を待ち受ける苛烈な行く末を暗示する。
もう目が離せない。

修練所での暮らしは過酷であった。
ふとした機会を捉え、主人公は仲間とともに脱走する。
逃げ込んだ町で、京劇が演じられている。
劇場に潜り込んで、それを目にする。
あまりに美しく主人公は涙が止まらない。
あのようになりたい。
どれだけ殴られようがどれだけ辛かろうが、あのようになりたいと、主人公は町を後にし修練所に戻る。

もらい泣きしそうなほどに胸震えるシーンである。

「ああなりたい」、どれだけ辛くても「ああなりたい」とかつて誰もが抱いたはずの願望に郷愁のようなものを覚える。

そして、「ああなりたい」という熱情を、命あるあいだ片時も忘れてはならないのではないか、それが人というものではないかと主人公から学ぶような気持ちとなって、ますます物語に没入していく。

随所に京劇のシーンが挿入される。
歌うような口上の節回し、優美な舞い、打楽器の音色などに次第次第魅せられていく。
なんと美しいのだろう。

映画が描くのは20世紀前半から中盤にかけての中国の激動の時代だ。

盧溝橋事件の後、日本軍が侵攻してくる。
ここでひと波乱あり、中国共産党が台頭し、また波乱。
とどめは文化大革命
伝統的な芸能は根こそぎとされるのだが、ヒステリックな狂気に支配された当時の中国の様子がおぞましく、自らの文化さえ先を競って引き裂くような人間一般の群集心理に身の毛がよだつ。

時代のうねりに京劇という伝統文化が翻弄され、主人公らは悲痛な運命を辿ることになる。

抗いようのない巨大な流れのなかにある人間のちっぽけさが胸に滲みて、しかし、やはりそれでも美しいとじわじわと感動が込み上がってくる。
なんて素晴らしい映画なのだろう。

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