KORANIKATARU

子らに語る時々日記

マンガ「零戦少年」と「戦争めし」を子に渡す


山手大橋を越え武庫之荘南のガソリンスタンドにクルマを寄せて給油する。
時刻は朝の5時。
車内から「夏のクラクション」が漏れ聞こえてくる。
KissFM今朝の歌の贈り物のコーナーは稲垣純一のようである。

道中、数曲聴いてすっかり耳がそれに馴染んだ。
この日、事務所でもヘビロテすることになった。
私が外出するまでツバメ君は稲垣純一を余儀なくされた。

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天満橋に寄ったので松坂屋の本屋に立ち寄る。
書棚を一通り眺め、マンガコーナーに移る。

子らのお風呂文庫を充実させようと思い立って以来、マンガの物色が習い性となった。
手軽に読める本であっても、本は本。
いつでもどこでも本に触れることを目的とすれば、マンガも十分役に立つ。

数歩歩いていきなり収穫。
先日朝日新聞の書評で取り上げられていた「零戦少年」が山積みだ。

アマゾンで注文していたが長く入荷待ちとなっていた。
その場でアマゾンの注文をキャンセルする。

「零戦少年」を手に取り、ついでにその横にあった「戦争めし」も重ねてレジに運んだ。


終業後、帰宅までの時間つぶしにマンガを読む。

ツバメ君は訝しんだことであろう。
ボスが事務所でマンガを読んでいる。
この事務所も終わりかもしれない。

最初に手にとったのは「戦争めし」であった。

戦時中にあり得たのかもしれない奇跡のような食の悦楽が描かれる。
戦地で米軍の支給品を拾って作るカツ丼、満州の屋台で口にし忘れられない味となった餃子、潜水艦のなか焼いて味わうエイヒレ、シベリヤで死の際にありついたパイナップル、捕虜収容所で作って米兵にも好評博した焼飯、配給の米と自達した魚介で握ってもらう寿司、、、

日頃私たちが何でもないように目にする「食」の貴さについて思い知らされる。
「戦争めし」を一読した後では、食のありがたさを痛感し、その美味しさを更に重く痛切に味わえるようになるだろう。

そして、このマンガのなか、最も鮮烈なインパクトを残すのがラストページである。
作者自身が言うように、この漫画自体を構想するきっかけとなったという絵が掲載されている。

戦時中の飢えのおぞましさがその一枚に凝縮されている。
そこに真実がある。
このラストページを心に刻むだけでも手に取る価値ある本と言えるだろう。

ビュッフェで肉ばかりよそう私と異なり、子らは野菜を山盛りにする。
私とは育ちが違い、彼らには食へのこだわりはあっても渇望がない。

あまりに食に恵まれたうちの子らにとって必読の書である。


引き続き「零戦少年」を読む。

登場人物の人物造形に「いかにも」といった重苦しさやお国のためにといった悲壮感がない。
ごく普通、見回せばそこらいるにような感性の若者が主人公であるので、日常からそのままバリアフリーで感情移入できる。

だからこそ、その分余計に終盤にかけての「順番が巡ってくる差し迫った雰囲気」にぎゅうと胸が締めつけられる。
読んで嗚咽してしまう者が続出するのも無理はない。

なんてことなのだろう。
厳かに語られるよりはるかにその酷さを肌で感じることになる。
読後、主人公やその友人、そして数多く同じ境遇を強いられた若者を想って、ただただ静か手を合わせたい、そのような気持ちとなる。

これもまた必ず子らに読ませなければならない。
名作だ。


帰宅すると、兄弟揃って和室で寝転び世界陸上を見ている。

子らにマンガを渡し、そこで父子ならんで一時過ごす。
明日の阪神ヤクルト戦はどうするのかと聞いてみるが、長男は帰宅が遅く、二男も遅い。
またもチケットは宙に浮くのだろうか。

この程度のことに気を揉む日常のなんと幸福なことであろう。

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